スコアボードに、「0」が五個ずつ並ぶ。うおお、痺れる。
五回裏を終えて、0-0。
グラウンド整備、兼、水分補給休憩に入った。
オレはつい爆踊りして持参の麦茶を飲み干しちまったけど、例のお好み焼き屋の大将が、「飲みな」って冷たい薄め出汁を持ってきてくれた。あざっす。
汗掻いた身体に、塩っけが染み渡る。
紙コップ片手に、そろそろ大西先輩が大会三本目のホームラン打ってくんないかなー、もちろん丈士先輩が自分で打ってもいいけど――ってグラウンド眺めてたら。
ベンチ前でキャッチボールする丈士先輩と、目が合った。
先輩が目を見開く。
オレのチア姿、見てる見てる。
「眼福じゃろ」
かと思うと、ユニフォームの腹をさすった。腹いっぱい? 逆だ、腹減ったのジェスチャー。
そう言えば先輩、「栄養ありそうなヤツ」が好きって言ってたっけ。
試合後半に向けて少しでも栄養補給してもらうべく、オレは青いスカートを揺らして飛び跳ね、力と元気をありったけ送る。
――先輩はめっちゃ頑張ってます!
――先輩は超うどん級ピッチャー!
――甲子園は目の前っス、一緒に行きましょ! って。
声は届かなくても、届くはず。
試合再開に向けて、集合がかかった。
部員みんなと円陣組む直前、先輩の八重歯が垣間見えた。
よし。ちょっとは力になれた気がする。
「……打者二巡したし、配球読まれてきよるなあ」
出汁入りウォータージャグを抱える大将と、謎おじさんが、そうひそひそ話すのが聞こえたけど。
たとえストレートってわかっても、先輩の速球は打てっこない。
って、オレは自信満々だったのに。
六回も七回も、先輩はヒット打たれて、ランナーを背負った。
山田部長のサインに首振ることも増えた。
「準決勝までのデータ、相手は七回以降の得点が多かったっけ……」
試合中に対戦ピッチャーの特徴を把握して、対応する力があるってことだ。
六回は、ショートの粟野先輩が賢く送球して、送りバントを阻止。
七回は、センターの大西先輩が長打をダイビングキャッチ。
そうして無得点に抑えたものの、やきもきする。
うちが一点取れれば余裕ができるけど、なかなかチャンスをつくれない。
相手ピッチャー、丈士先輩より球は遅い。でも変化球を効果的に使ってくるんだ。
八回表なんか、打席に立った丈士先輩もタイミングずらされて、手からバットがすっぽ抜けた。
そのまま内野ゴロになってアウト。うう。
「とにかくあと二回、
八回裏。相手は打順九番からだ。
打率の高いバッターじゃないけど、ファールで粘られる。投球数が増えてきた先輩は、何度も帽子取って汗を拭う。
「ストライク来い、来い……ボールかあ」
結局、四球で出塁された。
打順が一番に戻る。一塁側スタンドの相手応援団が、ここぞと声援と吹奏楽演奏で盛り立てる。
こっちは守備中ででけえ声出せないのがもどかしい。
二人目のバッターは、送りバントの構え。
ボールを打つんじゃなく転がして、自分はアウトになるけど確実にランナーを二塁に進める、っていうやり方だ。
ただし、一番打者は足の速い選手が務めることが多い。相手の一番、内野の守備が球取りづらいところに転がして、あわよくば自分もセーフになろうとしてる。
「粟野!」
丈士先輩が叫ぶ。
相手の企みは粟野先輩の守備で何とか阻んで、一アウト二塁。
ただ、今度はランナーが盗塁の素振りして、丈士先輩の気を散らせる。
後ろでちょこまかされると気になるんだよな。
そのせいか、三盗された上に、二番打者にまた四球を与えちまった。
「今のはストライクじゃろ審判……!」
オレは唇を噛む。先輩はストライクゾーンぎりぎりに投げ込んだと思うんだけど。
一アウト一・三塁で、相手の強打者、三・四番を抑えないといけなくなった。
ホームランでも長打でもなく、ヒット一本で失点してしまう。
「あ、部長立った」
このピンチに、山田部長がタイム取った。マウンドの丈士先輩のもとに向かう。
他の七人も集まってきた。みんなこんな大舞台ははじめてで、プレッシャーによる疲労もあるのか、足取りが重い。
でも、丈士先輩がひとつ頷けば、部員たちの顔に安心が広がった。
それぞれ丈士先輩の背中の「1」をぽんと叩いて、自分のポジションへ戻っていく。
マウンドでどんな話をしたのかは、さすがに聞き取れない。
それでもチームメートも、スタンドの応援団も、丈士先輩を信じてる。
「うちにはエースがおるけん」
仕切り直して、山田部長がしゃが――まない。
立ったまま丈士先輩とキャッチボールする。もちろんストライクゾーンは外れてる。
なんと相手の三番打者に対して、あえて四球にしたんだ。
「満塁策じゃ」
一アウト満塁。
一見ますますピンチだけど、塁が埋まってるぶんランナーはぜったい次の塁に進まないといけなくて、ダブルプレーを取りやすい。
要は内野ゴロを打たせればいい。
オレは、そうくるかって震えた。
野球がおもしろくて、丈士先輩の強気にわくわくして。
相手の四番が打席に入る。
怒りのオーラを発してる。そりゃそうだ、三番じゃなく四番と勝負して抑えようってんだから。
でもこっちからすれば、左打ちの三番より右打ちの四番のが、右投げの丈士先輩と相性がいい。
一球目、ボール。 二球目、ストライク。
三球目、ファール。四球目もファール。
うちのエースも、相手の四番も、譲らない。
相手の四番は、あくまでヒットを打つ気だ。四球押し出しを狙ってない。おかげでツーストライクに追い込めた。
「うお!?」
五球目、あわや死球のボール。声裏返った。
山田部長が外角低めに構えたミットの、真逆に行った。逆球ってやつだ。手汗で滑ったのかな。
六球目、チェンジアップがまた高く外れてボール。
こっちのスタンドからは溜め息が、向こうのスタンドからは歓声が上がる。
「フルカウントになりよった」
データでは、先輩の制球力は高いのに。
……もしかして、先輩、握力だいぶなくなってる?
さっき攻撃のときバットすっぽ抜けたし、準決勝の後オレのほっぺた触る力も弱かった。
この県予選、ずっと一人で投げてきてる。
「先輩、真顔やけど
オレにはわかる。わかっちまう。
讃岐高ベンチには三年生の控えピッチャーが一人いるものの、丈士先輩に抑えられないものを抑えきれまい。
名将どころか普通の教頭である顧問兼監督は、動かない。
七球目、先輩はサインに二回首振る。
この試合、まだ変化球は出してない。
振りかぶる。ストレートを投げて、ファール。
もし打たれなきゃボールだった。ストライクが入らない……。
「オレにできること、何かねえのか!?」
透明バッグのストラップを握り締める。
オレばっかり先輩に力もらってる。
オレも勝利の少年神らしく、先輩の夢を、部員やスタンドのみんなの祈りを叶えろよ。
って言っても、相手の攻撃中で踊れないし……。
先輩は気分転換にか、自分の後ろを守る七人の仲間を振り返った。
オレの目には、快晴の空をバックに、背番号「1」がくっきりと映る。
いちばんイケメンで。
いちばんすげえピッチャーで。
オレの、いちばん好きな人。
「センパイ、勝ったら、キスしたります!!!」
気づいたらそう叫んでた。
全力本気ストレートな告白。
マウンドの先輩が前に――こっちに向き直って頷く。山田部長が出した球種のサインに頷いたんだけど、まるでオレに頷いてくれたみてえ。
先輩が迷いなく投げたボールは、まっすぐ伸びる。
先輩の勝負球。
さっきまでより速い、渾身のストレートだ。
――キィン。
相手も、三年生の意地で打ち返す。
球が速いぶん、よく飛ぶ。歓声と悲鳴が球場にこだまする。
大西先輩がフェンス際まで走り、スタンバイした。
ホームランには及ばない。
外野フライに抑えた。これで2アウト。
「よし。――あああ!」
でも息つく間もなくタッチアップだ!
三塁ランナーが本塁へ一直線に走る。
野手が捕球したあと、ランナーは次の塁に進むチャレンジができるんだ。守るほうは、ランナーより先に球を次の塁へ届けないといけない。
大西先輩がグラウンドを縦断するように返球する。
大西先輩のパワーでも本塁には届かなくて、丈士先輩が中継して、キャッチャーの山田部長に託す。
スタンドはもうみんな立ち上がってわーわー言ってる。
ランナーのスライディングで土埃が起きて、間に合ったのかどうかわからない。
球場中が注目する審判の判定は――。