讃岐高校野球部は先月、夏の甲子園予選の決勝で惜敗して、三年生が引退した。
大西先輩を新部長として、一・二年生のみ十人ちょっとで練習を始めてるんだけど。
「山田部長の存在はでかかったわいなあ」
そう。山田前部長はキャッチャーポジションで、丈士先輩の
バッテリーを組んで約一年の経験がある。
それでも、丈士先輩が転校してきた直後は苦労していたという。
打つのが難しい球は、捕るのも難しい。
「そもそもキャッチャーの控えもおらん。
「師匠もそう思う?」
――花火大会の翌週。
新チームの様子が気になって、野球部の練習見にきたら、制服姿の杏奈ちゃんもグラウンド脇にいた。
甲子園予選のときマネージャーになった二年の先輩に頼まれて、新チームでもデータ班を務めることになったそうだ。
下心でサポートしてたわけじゃないもんな。
「けど、外野手や内野手と
オレはふつうの態度を心掛けて、オレより野球に詳しい杏奈ちゃんの意見を聞く。
「できんでも、やるしかないわい」
おお。杏奈ちゃん、野球のことになるとストイックだ。
確かにこの夏休み、まず個人の課題を解消しようと練習してたけど、秋季大会は九月半ばに早くも始まる。
そろそろ実戦形式のメニューも取り入れないといけない。
新チームのいちばんの課題である「誰が丈士先輩の球を捕るか問題」を、早急に解決する必要があった。
「次のケースバッティングは、林投げてみい。キャッチャーはわしがやってみよう」
グラウンド内でも、まさにその解決が試みられる。
ランナーとか相手の守備位置とか、いろいろな状況を想定した、攻撃の練習。
丈士先輩が相手ピッチャー役、そしてキャッチャー役に、これまで外野手だった大西先輩が名乗りを上げた。
大西先輩は部でいちばん頑丈な男だし、いけるかも。
部員もオレも、固唾を呑んで見守る。
「ぐおおっ」
でも期待空しく、大西先輩が呻いた。
腰と膝が痛いって身振りしてる。大柄なぶん捕球姿勢が窮屈なんだろう。
それとやっぱり丈士先輩の球の圧も関係あるような……。
当の丈士先輩は、「まだ三球しか投げてないけど?」って顔だ。
それを見て怯んだのか、二人目の挑戦者すら出ない。
ピッチャー役を交代すればケースバッティングは再開できるけど、根本の解決にはならない。うむむ。
キャッチャーは、ピッチャーの「女房役」とも言われる。
――こうなったらオレが行くしかない。うん。
「日高蒼空、いきます!」
勇んで炎天下のグラウンドに踏み込んだ。
「本気? 未経験者のチアボーイくんはやめといたほうがええん
粟野先輩にやんわり日陰へ追い返されそうになったから、素早くキャッチャー用の防具に手を伸ばす。
オレだって、丈士先輩のために何かしたい。すぐは無理でも、特化した練習を一年間続ければ、野球でも女房役になれるんじゃないか?
つばなしのヘルメットにマスク、胸と腹を覆うプロテクター、それから捕球体勢を取ったとき前面に出る膝下を守るレガースを、制服の上に着けていく。
……重い。暑い。動きにくい。
「
喉のガードもついているマスクの下で、今さら冷や汗を掻く。
いや。やるって言ったらやるんだ。できるかできないかじゃなく、やる。
見よう見まねで、ホームベースの後ろに
しゃがんだ。
「センパイ! どんときまい!」
ここまで何も言わずマウンドに立っていた丈士先輩が、小さく頷く。
ゆったりと振りかぶる。
オレはひそかに感嘆の息を吐いた。
正面から見る丈士先輩のフォーム、めちゃくちゃきれいで、迫力があって、なのに、
「ひにゃあああ」
最後まで目に焼きつけられず、頭を抱え込む。
高めに投げられた白球は、オレの頭の上を通り越し、背後のネットにばふんとめり込んだ。
……球が速過ぎて逃げることもできなかった。
いや違う、捕ろうとしたんだ、本当に!
「あはは。うん、わかっとったけどさ」
「ちょっとは手加減せいや」
粟野先輩が、尻もちついたオレに怪我がないか調べながら、こらえきれずといったふうに吹き出す。
ファールライン沿いで見守ってた大西先輩は、丈士先輩に苦言を呈する。
オレは咄嗟に立ち上がった。
「いや! 丈士センパイには常に全力出してほしいんス。今ので心の準備できたけん、もっかい挑戦させて、」
「キャッチャー諦めさせるために全力で投げた」
オレの主張を、丈士先輩が静かに遮る。
恋人でも頑張るとこじゃないって、いくら口で言ってもオレが聞かないのはお見通しで。
全力の一球でもって、教えてくれたんだ。
「……っス」
先輩がどれだけ野球に懸けてるか知っているからこそ、出しゃばれない。
先輩は楽しむだけじゃなく、厳しい戦いを勝とうとしてる。
オレは深く礼をして、キャッチャーの防具一式を部員に返却した。
昼休憩は、冷房の効いた視聴覚室に集まった。
屋上手前の「ひみつの場所」は、夏休み中は体調優先で使わないことにしてる。
午前練を邪魔する形になっちまったオレは、ちょっと気まずい。
弁当を詰めた保冷バッグを長机に置いて小さくなってたら、丈士先輩が当たり前のように隣に座ってくれた。
……怒ってない。ほっとする。
「センパイ、冷やうどんどうぞ」
「あんがと」
弁当箱を開ける。
つるっと喉に入ってって、午後練の体力のもとになる食べ物って言ったら、うどんっしょ。
乗っけた梅干しとすだちは疲労回復に効く。温玉は筋肉を補強するタンパク質。
この夏休み、栄養についてかなり勉強してるんだ。
丈士先輩はもりもり食ってる。
それが何より嬉しくて、にやけた。
自分が美味いもん食べるのと同じくらい、幸せな満腹感がある。
「蒼空も食いな」
にまにましてたら、先輩が自分のジャー型弁当箱の一段をオレに差し出してきた。
先輩とおかず交換できる特権に、ますます頬をゆるませつつ、器を覗き込む。
「豆腐っスか?」
「
生成り色のなめらかな塊。
煮小豆と一緒にとろりとしたあんかけ、いや、スープに浸かってる。
スプーンでひと口、掬ってみる。
「冷とうて、甘うて、美味ぁ……!」
想像してたのと違うけど、想像より美味い。塩っけある肉系おかずの合間の口直しにちょうどよさそうだ。
豆花か。響き的に、先輩の地元の味ってやつかな。いつか先輩のお母さまにレシピ教えてもらおう。
なんて、お嫁さんみたいなことを考える。さすがに気が早いぞ、オレ。
「お、みんな久しぶり。でもないか?」
照れ隠しで豆花を頬張っていたら、視聴覚室の扉が開いた。
丈士先輩も他の部員も、一斉に弁当箱から顔を上げる。
山田前部長だ。
夏休み中も、受験組の三年生のために図書室が解放されてる。前部長はそこでグラウンド眺めながら勉強してたらしい。
午前練見て、何かアドバイスに来てくれたのかと思いきや。
前のスクリーンの電源をつける。
でも映像は映らず、「あれ?」って首傾げてる。
「あの。手伝います」
ダンス部のオレは、みんなでダンス動画を観るので機器を使い慣れてる。
おずおず申し出れば、前部長は困り眉で「テレビ観たいんやけど……」と頼ってくれた。
お安い御用です。
ぱっ、とスクリーンに光が灯る。
「映った! ありがとう。今日はどうしても観たかったんや」
前部長は嬉々として最前列に座った。
スクリーンには、青い空と、土と、白いユニフォームが映し出されている。
――甲子園。今日、決勝だったんだ。
それもちょうど八回裏のいいところ。
吹奏楽部の演奏やメガホンの音、実況アナウンサーの興奮した声が絶え間なく聞こえるのに対して、視聴覚室はしんと静まり返る。
部員みんな釘付けになってる。
特に丈士先輩の目は、燃えていた。
来年の夏こそあの場所に立つ、って。
田舎の校舎から画面越しに眺めるのはこれが最後だ、って。
そのためには、「誰が山田前部長の後を継ぐか」問題を解決しないといけない。
改めて、ごくりと唾を呑み込む。
「大西部長。キャッチャー、僕が試してもええですか?」
オレと同じように考えたのか、おもむろに一人の部員が名乗り出た。