食い入るように甲子園中継を観ていた大西先輩と粟野先輩が、視線を目の前の部員に移す。
「もちろん」
「てか午後、全員一回捕球してみー」
大西先輩の重々しい許可にも、粟野先輩の鷹揚な補足にも、きちりと頭を下げる。
一年生だ。
「三組の
オレは一応持ってきてる、データ班用のノートを引っ張り出した。
効果的にデータを活用できるよう、部員全員の基本情報と特徴をメモしてある。
讃岐リトルシニア出身。
高校入学前から硬式野球の経験があるんだ。
もしかしたら、丈士先輩が転校してきたのを見て、一緒に野球したいって讃岐高校に入ったのかもしれない。
ただし大西先輩たちと違って、リトルシニアでは控えだった。
「俺、先行くわ」
丈士先輩は中継を最後まで観ることなく、視聴覚室を後にする。
早く練習したい、思いっきり投げたいって背中。
それを岩田が追う。さらにオレも追う。
グラウンドに出た先輩は、胃がびっくりしないよう、少しずつウォーミングアップする。
岩田は暑さをものともせずキャッチャーの防具を身に着け、丈士先輩が投げたくなったらいつでもどうぞって態度で示す。
まさに丈士先輩がマウンドに立った。
岩田が捕球体勢をとる。
「すでに以心伝心って感じ……」
オレのつぶやきを吹き飛ばすみたいに、先輩がストレートを投げ込む。
岩田は危なげなく、捕った。
「あの一年、なかなかええんやない?」
相変わらず猫のごとく音もなく背後にいた粟野先輩の表情が、明るくなる。
「もともと外野の控えで、肩が強いのもええですね。身長も伸びとります」
山田前部長に厳しいコメントしてた杏奈ちゃんも、前向きだ。
キャッチャーは盗塁を阻止するために二塁や三塁に球を投げる必要があるから、肩が強いと武器になる。
「身長はオレだってこれから伸びる予定じゃわい」
つい無駄に張り合ってしまった。
バッテリーの二人はそんなの知る由もなく、投球を続ける。
三球目には、パァン! と気持ちよくキャッチャーミットが鳴った。
この音、キャッチャーの捕り方ひとつで変わるらしい。
いい音がしたほうが、当然ピッチャーは嬉しいわけで。
実際、マウンドの丈士先輩は満更でもなさげに、口角が上がってる。
「ええな。てか、岩田しかおらんな」
トライアルを見に降りてきた大西先輩が、太鼓判を押す。
後ろに続く一年部員は、丈士先輩の速球を捕らなくてよくなってほっとした顔だ。
こうして、新チームのキャッチャーは、岩田に決まった。
岩田にとっては外野の控えからレギュラーに昇格した形で、二年の先輩に遠慮しつつはにかんでいる。
野球部いちばんの問題が解決したのは喜ばしいこと、だけど。
さっき、マスクの隙間から見た光景を思い返す。
丈士先輩の真剣な顔と、きれいなフォーム。
特等席で先輩が野球してるところ見られるの、ちょっと、かなりうらやましい。
オレが出しゃばるところじゃないのは頭ではわかるのに、山田前部長相手にはこんな気持ちにならなかったのに、胸の雨雲みたいなもやもやがどうしても晴れなかった。
「日高……くん。昼休み、時間あるかいな」
さらに翌週、二学期初日。
体育館での始業式を終えて、ぞろぞろ教室に戻る途中、岩田に話しかけられて驚く。
オレは情報科で、岩田は電子工業科。
一学年の人数は多くないとはいえ、クラスが違うとほぼしゃべったことはない。
岩田は周りよりほんの少し背が高いものの、運動部としては普通で、目立つタイプじゃない。
まあそれ言ったらオレも平凡な男子高校生だけどな。
チアボーイは評判だったにしても、二学期になってオレのファンが現れたりとかはしていない。
ましてや野球部員じゃないオレに、何の用だろう。
「うん? 少しなら」
とりあえず頷いてみせる。
丈士先輩との弁当タイムは、別に集合時間が決まってるわけじゃないし。
というか、夏休み後半も結局、電話はしたけどデートには誘えずじまいだった。
野球に集中したいだろうなって、どうも躊躇っちまう。
……この「野球を優先してもらわないと後ろめたく感じる」問題、先輩と付き合い始めたオレの課題かも。
「少しでええわい。じゃ、あとで」
岩田は安堵するように息を吐き、三組のグループに戻っていった。
何だ……?
オレは我に返って、人込みを掻き分ける。
二年の教室へ向かう丈士先輩の左腕に、そっと触れた。
丈士先輩は、どこにいてもすぐ見つけられる。
「あの。今日の昼は、弁当先に食べよってつかさい」
「……なんで」
業務連絡したら、あからさまに機嫌が悪くなった。
オレの腹の中で、無実ですって気持ちと、ちょっぴりの嬉しさが入り混じる。
「岩田が、何か話あるみたいで。速攻で済むっス」
「ふーん。わかった」
先輩は納得してくれたんだかそうでもないのか、オレのうどん肌ほっぺをむい~と摘まんで堪能した末に、階段を上がっていく。
それを目撃した女子の先輩が、「林、あの一年のチアの子とめっちゃ仲良うなっとらん?」ってひそひそ言い合う。
オレは何もリアクションできず、悪友の英翔に合流しようとして、それも途中でやめた。
英翔は夏祭りでできた彼女と、一組と二組の間で名残惜しそうに話してる。
他のやつらも二人に気を遣って、割って入らないようにしていた。
「あの二人の仲、自然に広まったよな」
オレと丈士先輩が恋人になったことは、なぜか粟野先輩に早々にばれて、野球部の先輩たちだけは知っている。
それ以外は、英翔にもまだ言えてない。
あのとおり自分の恋に夢中だし、信じさせるのに手間がかかる。
丈士先輩は、別に隠してないと思う。
かといって、高校の廊下で「付き合いましたー!」って宣言するのも違うし。
先輩は、素直な好意を届けるだけの自信を、オレにくれた。
胸を張って先輩の隣にい続けたい。
どこにでもいるやつがなんで? って思われない存在でありたい。
それでいて先輩には野球に打ち込んでもらって……。
「ぜんぶ叶えるの、難しゅうないか!?」
オレは廊下のはじっこでひとり、茶毛をくしゃくしゃ掻き回さざるを得ない。
告白も両想いも、はじめて恋するオレにはハードルが高くて、たくさんのエネルギーが必要だった。
でも付き合って終わりじゃなく、始まり。
乗り越えなきゃいけないことはまだまだある。
――そのひとつが先輩の「新しい女房役」だとは、このときはうどん一本分も思っていなかった。