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(九)

 鼻の頭がくすぐったくて目を覚ました。


 みくにの鼻にくっついていたのは桜の花びらで、起きた拍子にそれがひらりと落ちていった。


 頭上には桜の木が枝を張って、盛大に咲き誇っている。


 自分がベンチに座っていることに気づくと、あくびが出た。


「あたし……なにしてたんだっけ?」


 周囲を見渡すと、桜並木の街路。

 その遊歩道のベンチに座っているのに気づいた。

 自宅からスーパーに行く途中の通りだ。


 たしか……。


 記憶を辿り、母と一緒にスーパーへ出かけたことを思い出した。


 いつものように買い物をして、帰路に着いていたはずだが、そこからベンチで寝てしまうまでの記憶が……――。


「…………――いや、あるな! 拓真くんとの記憶、めっちゃあるんだけど!」


 王崎家前で飛び出してきた拓真を見かけ、それを追ってるうちに誘拐事件に巻き込まれ、工場で誘拐犯と戦い、拓真が刺され、剛造が現れ、そしてみくにの記憶を消すと言われたのだが……。


 記憶、ぱーふぇくとじゃん!


 不思議とすべて残っていた。


 拓真が心変わりした可能性を考えたが、彼の言動からそれはなさそうに思えた。


「だとすれば……」


 スーパーガールの力が、記憶を消そうとした拓真の力をはね返したのではないか。


「うん、きっとそうだ」


 根拠はないが、そう確信し、みくには満面の笑みを浮かべた。


 拓真がどんな力を持ち、なにを抱えているのかはわからない。


 しかしその力に負けないものを自分が持っていることがたまらなくうれしかった。


 拓真に宣言したとおり、スーパーガールの力があれば、もし彼が悪に堕ちても、救うことができるからだ。


 みくには勢いよく立ち上がった。


 やはり、これは運命の恋! あたしと拓真くんは結ばれるんだ!


「恋の力は無敵だ!」


 みくにの恋の未来を祝福するかのように、春の風に桜吹雪が舞った。


 * * *


 黒塗りの外国産高級車の後部座席にもたれながら、拓真は退屈そうに窓外を見つめていた。


 桜並木が続く街路は、昨日、自分が不覚にも誘拐された現場だ。


 王崎拓真に課された使命に嫌気が差し、衝動的に家出をしたが、とうてい父の手の中から逃げられるものではなかった。


 その絶大的な呪縛を突きつけられただけだった。


 父さんに逆らうなんてできない。


 誘拐事件を利用し、拓真にそう思わせることが、父の狙いだったのかもしれないとさえ、今は思う。


 拓真は深々と息を吐いた。


 今日もまた父が主催するパーティーに出席し、知らない大人たちからの愛想を浴びなければならない。


 いずれ父に代わって、そんな人間たちの上に君臨することになるのだから。


 プレッシャーしか感じず、拓真の気持ちはどんどん沈んでいく。


 が、そこから引っ張り上げてくれるように、昨日の少女が脳裏に浮かんだ。


 不思議な少女だった。


 五歳児とは思えない力もそうだが、はじめて会ったのに、拓真に好きだと伝え、真正面からぶつかってきた。


 大人も含め、そんな人間は今までいなかった。


 恋の力を掲げ、拓真が悪に堕ちても引き戻すとまで言っていた。


「むちゃくちゃだな」


 思わず呟きを洩らしたが、口元は自然とほころぶ。


 彼女がもし自分のそばにずっといてくれたら……。


 わずかな希望のともしびが灯りかけたが、すぐにそれを頭から追い払った。


 ばかばかしい。


 たった今、王崎家の呪縛、強大すぎる父の存在に打ちのめされていたのに。


 それに彼女が自分の前に現れることはきっとない。自分との記憶はすべて消したのだから。


 溺れそうな諦念に、唇を噛んだときだった。


「なんでしょうか、あれは」


 年配の運転手の怪訝そうな声が聞こえた。


 視線を向けると、運転手は進行方向を見つめ首をかしげている。


 それにつられるように、拓真も前方に視線を向けた。


 街路に架かる歩道橋が見える。


 その歩道橋の真ん中から、垂れ幕のようなものが下りていた。


 大きな、でも、へたくそな文字がそこに書かれてある。


“あたし、あなたが好き! 付き合おう!”


 そしてその垂れ幕のそば、歩道橋の欄干の間に、ひとりの少女の姿が見えた。


「え……?」


 拓真は目を疑った。


 それは間違いなく昨日の少女――広小路みくにだった。


 みくには橋の上で両腕を組んで仁王立ちし、輝くような得意顔を浮かべていた。


 なぜ!? 記憶はたしかに消したのに!?


 車内で愕然とする拓真の視界で、垂れ幕が鮮やかにひるがえっている。


 やがて車は歩道橋下を通り抜け、みくにと垂れ幕を残し、やがて見えなくなった。


 何事もなかったように、運転手は運転を続け、拓真はシートに背をもたれた。


 これからも王崎拓真の日常が続く。


 しかし窒息しそうだった諦念は、もうなかった。


「これが……スーパーガールの力……?」


 みくにが拓真との記憶を失くさなかったように、拓真もまた広小路みくにを記憶に刻んだ瞬間だった。


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