もう限界よ。
あずさは両手で握りしめた包丁の切っ先を前方へ向けた。
「ま、待て……待てって、なあ、落ち着こう、あずさ」
男の余裕のない声がリビングに響いた。
下着しか身につけていない男は、贅肉の目立つ
「マジで違うって、あの女とはなんでもないんだって、たまたま昨日ばったり会って、たまたま雨に降られて濡れて、たまたま俺んちが近かったから、服を乾かすまで一緒にいただけで」
「で、たまたま抱いたって言うの?」
「うん……――じゃなくて……たまたま寒くて、ふたりで抱き合って温めあってて」
「雪山か!」
包丁を構えたまま、一気に三歩近づいたら、男は悲鳴を上げて窓際まで飛びのいた。
「
思えば、結婚する前から気が多い男だった、卓は。
けれど結婚すればそれも収まるかと思ったのに、卓の浮気癖は治らず、あずさは何度も泣かされた。
それでも別れなかったのは、あずさには夢があったからだ。
ふたりでカフェを開業するという夢が。
そのために結婚後も共働きを続け、ふたりで資金を貯め続けていた。
それはつまり自分たちの将来を卓も考えてくれてるからだと。
そう思っていたから、だから何度浮気されても許してきたのに。
「わたしのお金、返してよ!」
ホステスに入れあげた卓は、ふたりで貯めていた金をその彼女につぎ込んでいた。
あずさが気づいたときには、必死に蓄えた貯金はあらかたなくなっていた。
そしてあろうことか、あずさの留守の間に、女を自宅に連れ込んでいたのだから救いようがない。
女はあずさの登場にあわてふためいて逃げていったが、去り際一瞬、あずさを見て顎を傾けて笑った。
本当に頭に来る。
あの女もつかまえて包丁を突き刺してやりたい。
そのぶんの怒りも、今、永遠の愛を誓ったはずの夫、卓に向けられている。包丁の切っ先とともに。
「返す! 金は返すって! あれっぽっちの金、倍にして返してやるから!」
あのお金は“あれっぽっちの金”なんかじゃなく、わたしたちの夢だった。
それすらも共有できていなかったことに、あずさは絶望し、と同時に、怒りに打ち震えた。
もう、どうでもいい。
怒りと
「俺には、おまえしかいないんだって。わかるだろ?」
わからない。
また一歩、近づく。
卓はベランダに続く窓を開けようとして、鍵がかかっていることに気づき、小さな悲鳴を上げた。
「愛してるのはおまえだけなんだって」
わたしにはもう卓の愛はいらない。
獲物をしとめるように一歩、近づく。
卓は青ざめながら窓の鍵を外し、それを勢いよく開けた。
どうせベランダは行き止まり。
しかもここは地上四階。
飛び降りることも不可能だ。
「終わらせよ、卓」
冷たく低い声で告げ、近づいていく。
卓はベランダへ出ようとして、段差につまづき、リビングとベランダにまたがるような格好で倒れた。
ぶざまね。
なんでこんな奴を好きになったのか。
彼を選んだ自分自身をあざけりながら、あずさは卓の身体をまたいで立った。
腰が抜けたのか、立ち上がれずにいる卓は、涙目で鼻水を垂らしながら、あずさを見上げている。
「た、助けて……なんでもするから」
あずさは口の端を上げて、フッと笑った。
なんでもすると言われても、彼にしてもらいたいことが、もう本当になにも思い浮かばない。
ドッと疲れに襲われ、ようやく振り上げた包丁を、もう一刻も早く振り下ろしたくてしかたなかった。
「わたしたち、なにもかも、遅いのよ」
重力に従って、それが自然なことであるかのように、あずさは包丁を卓の身体に向かって振り下ろした。
「ダメ!」
しかし、包丁の切っ先はベランダの床に、カツンと音を立てて弾かれた。
真下にあったはずの卓の身体は消えていて、そのかわりに目の前に少女が立っていた。
どこかの球場からやってきたのか、ユニフォーム姿の少女はマスクをつけているせいで顔半分が隠れている。
突然の出来事に目を白黒させるあずさに、少女は安堵したように息を吐いた。
「よかった、間に合って」
「だ、誰? ……あなた」
少女がマスクの下でフッと笑った。
「恋のスーパーガール――参上」