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(四)

 もう限界よ。


 あずさは両手で握りしめた包丁の切っ先を前方へ向けた。


「ま、待て……待てって、なあ、落ち着こう、あずさ」


 男の余裕のない声がリビングに響いた。


 下着しか身につけていない男は、贅肉の目立つ身体からだを縮ませてあとずさりする。


「マジで違うって、あの女とはなんでもないんだって、たまたま昨日ばったり会って、たまたま雨に降られて濡れて、たまたま俺んちが近かったから、服を乾かすまで一緒にいただけで」


「で、たまたま抱いたって言うの?」


「うん……――じゃなくて……たまたま寒くて、ふたりで抱き合って温めあってて」


「雪山か!」


 包丁を構えたまま、一気に三歩近づいたら、男は悲鳴を上げて窓際まで飛びのいた。


たく! あんた何回同じこと繰り返せば気が済むのよ! あんたに裏切られるたびに、わたしが笑って許してるとでも思ってた!? どれだけ心がずたずたにされたか!」


 思えば、結婚する前から気が多い男だった、卓は。


 けれど結婚すればそれも収まるかと思ったのに、卓の浮気癖は治らず、あずさは何度も泣かされた。


 それでも別れなかったのは、あずさには夢があったからだ。


 ふたりでカフェを開業するという夢が。


 そのために結婚後も共働きを続け、ふたりで資金を貯め続けていた。


 それはつまり自分たちの将来を卓も考えてくれてるからだと。


 そう思っていたから、だから何度浮気されても許してきたのに。


「わたしのお金、返してよ!」


 ホステスに入れあげた卓は、ふたりで貯めていた金をその彼女につぎ込んでいた。


 あずさが気づいたときには、必死に蓄えた貯金はあらかたなくなっていた。


 そしてあろうことか、あずさの留守の間に、女を自宅に連れ込んでいたのだから救いようがない。


 女はあずさの登場にあわてふためいて逃げていったが、去り際一瞬、あずさを見て顎を傾けて笑った。


 本当に頭に来る。

 あの女もつかまえて包丁を突き刺してやりたい。


 そのぶんの怒りも、今、永遠の愛を誓ったはずの夫、卓に向けられている。包丁の切っ先とともに。


「返す! 金は返すって! あれっぽっちの金、倍にして返してやるから!」


 あのお金は“あれっぽっちの金”なんかじゃなく、わたしたちの夢だった。


 それすらも共有できていなかったことに、あずさは絶望し、と同時に、怒りに打ち震えた。


 もう、どうでもいい。


 怒りと自棄じきが頂点に達したときには、包丁を握りしめていた。


「俺には、おまえしかいないんだって。わかるだろ?」


 わからない。


 また一歩、近づく。


 卓はベランダに続く窓を開けようとして、鍵がかかっていることに気づき、小さな悲鳴を上げた。


「愛してるのはおまえだけなんだって」


 わたしにはもう卓の愛はいらない。


 獲物をしとめるように一歩、近づく。


 卓は青ざめながら窓の鍵を外し、それを勢いよく開けた。


 どうせベランダは行き止まり。

 しかもここは地上四階。

 飛び降りることも不可能だ。


「終わらせよ、卓」


 冷たく低い声で告げ、近づいていく。


 卓はベランダへ出ようとして、段差につまづき、リビングとベランダにまたがるような格好で倒れた。


 ぶざまね。


 なんでこんな奴を好きになったのか。


 彼を選んだ自分自身をあざけりながら、あずさは卓の身体をまたいで立った。


 腰が抜けたのか、立ち上がれずにいる卓は、涙目で鼻水を垂らしながら、あずさを見上げている。


「た、助けて……なんでもするから」


 あずさは口の端を上げて、フッと笑った。


 なんでもすると言われても、彼にしてもらいたいことが、もう本当になにも思い浮かばない。


 ドッと疲れに襲われ、ようやく振り上げた包丁を、もう一刻も早く振り下ろしたくてしかたなかった。


「わたしたち、なにもかも、遅いのよ」


 重力に従って、それが自然なことであるかのように、あずさは包丁を卓の身体に向かって振り下ろした。


「ダメ!」


 しかし、包丁の切っ先はベランダの床に、カツンと音を立てて弾かれた。


 真下にあったはずの卓の身体は消えていて、そのかわりに目の前に少女が立っていた。


 どこかの球場からやってきたのか、ユニフォーム姿の少女はマスクをつけているせいで顔半分が隠れている。


 突然の出来事に目を白黒させるあずさに、少女は安堵したように息を吐いた。


「よかった、間に合って」


「だ、誰? ……あなた」


 少女がマスクの下でフッと笑った。


「恋のスーパーガール――参上」


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