悪の波動。
自分が察知できる悪者の気配を、みくにはそう呼んでいる。
それはみくにの皮膚を
そのゆがみが強まっていく方向へ向かえば、悪者にたどり着けることを、みくには経験上知っていた。
ソフトボールの試合を抜け出し、その悪の波動を追って町を駆け、五分ほどでたどり着いたのは、四階建てのマンションだった。
駅から遠く、周囲におもだった店舗もない場所に佇むマンション。
その前で見上げると、最上階の四階部分の一室を中心に、ゆがみが強まっていた。
視覚を集中させると、ベランダに面した窓の向こうに人影が見えた。
下着姿の男だ。
空間のゆがみは、その半裸の男を中心に波紋のように拡散している。
男はあわてた様子で窓を開け、ベランダに出てこようとした拍子に転んだ。
すると室内からその男を追いかけてきたのか、もうひとつ人影が現れた。
今度は女だ。
身体の前にかまえた両手が握っているものが、西日に反射してきらめいた。
包丁!?
一見すると、包丁を持った女が男に襲いかかろうとしているように見える。
けれど女からはゆがんだ悪の波動は出ておらず、発しているのは倒れた男のほうだ。
てことは、悪いのは男。
襲われている人間が悪者の時だってある。事件の背景が複雑な場合も少なくない。
でもそれなら、絶対にあの女の人を止めないと!
悪者になる必要のない人間が、悪者のせいで自身も悪者になるなんて理不尽だと、みくには思う。
周囲に視線を巡らせながら、常に携帯しているマスクをつける。
なるべくスーパーガール活動では素顔を見られないように心掛けている。
人影がないことを確認すると、みくには頭上を見上げた。
呼吸を深く吸い込み、つぎの瞬間、大きく跳躍した。
軽やかに二階部分まで到達すると、手近なベランダの手すりに片足をかけ、そこを足場にさらに飛び上がる。
目当ての四階の部屋にたどり着く寸前、女が男に向かって包丁を振り下ろすのが見え、思わず叫んだ。
「ダメ!」
ベランダへの着地とともに、倒れた男の肩口に手が届き、瞬時に後方へ投げた。
ほぼ同時に、カツンッと音がして、女の振り下ろした包丁がベランダの床に
「よかった、間に合って」
胸を撫で下ろしたみくにの目前で、女が驚きの表情を浮かべた。
「だ、誰? ……あなた」
「恋のスーパーガール――参上」
怖がらせないように、友好的に微笑んだつもりだった。
が、マスク越しで伝わらなかったのか、女は包丁を持ったまま、中腰の姿勢であとずさった。
「いったいどこからはいってきたの!?」
マンションの前から飛んできた、などと言ってもとうてい信じてもらえないだろう。
それにそんな説明よりも、スーパーガールとしてやるべきことがある。
みくには音もなく一瞬で女に近づくと、その手中の包丁を取り上げた。
女からすれば、持っていた包丁が瞬時にみくにの手に移動したように見えただろう。
それだけ常人離れしたスピードだった。
「え~と、事情はよくわかんないけど、暴力はダメ。ていうか、包丁なんかで刺したら、死んじゃうかもなんだよ」
包丁を奪われたことで気勢をそがれたのか、女は視線を泳がせてよろめくと、後方のソファに座りこんだ。
「そのひとを殺して、わたしも死んでやる」
うつむき、涙を零す女に、みくには「いや、それはダメ」と、たしなめた。
「よ~く見てよ、あんな男のために死ぬなんてアホらしくない?」
そう言ってみくにが指さした先には、先程とっさに引っ張り投げた半裸の男の姿があった。
ベランダの手すりにぶつかったらしく、尻を上にして引っくり返って気絶中。
唯一身につけていたパンツは片側が膝上にずれ、今にも局部があらわになりそうだ。
気色悪い……。
ぱっと見、太ってはいないのに、下腹が出て、全体的にぶよぶよとたるみがちの身体に、みくにはげんなりと顔をしかめた。
「見た目があれで、中身は悪者なんでしょ!? そんな男のために死のうなんて、絶対まちがってるから! ダサダサじゃん、あの男! あんなのとはとっとと別れて、もっと素敵なひとを見つけるべきよ! そうじゃないとあなたの人生もったいない!」
力説するみくにと、ベランダで醜態をさらす男を交互に見ていた女は、やがてフッと笑った。
「……ホント、そうね」
女は立ち上がり、力強い足取りでベランダへ行くと、男に侮蔑の視線を注いだ。
「覚悟しなさい、わたしから取ったお金も慰謝料も、きっちり払ってもらうから!」
生気と覚悟の宿った女とは対照的に、気絶してる男はぶざまに引っくり返ったまま、かすかにうめくだけだった。