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第八話 吾桑絹依 壱

 さらさらと指通りの良い金糸の髪を指で梳くようになでる。しかる、薫の身体が徐々に弛緩していき、穏やかな寝息が聞こえ始めた。赤ん坊のように身体を丸めて眠る薫の姿を愛らしく思いつつ、青白く見える程に透き通った白い肌の目元に濃い隈が痛々しくて、絹依の胸がツキンと痛んだのであった。

 折角、眠りにつくことが出来た薫を起こすのは忍なく、畳んで置いていた薫の衣服の中から木綿の単衣ひとえを取り出して薫の身体に駆けてやる。するとどうであろう? 薫はもぞもぞと動いたのち、顔の向きを変えて、絹依の腰に力なく腕を巻き付けたではないか! 絹依は歓喜の叫びを上げたくなったが、愛する義弟の眠りを妨げるのは、其れが自分であっても万死に値すると思い、声には出さないが身体を悶えさせるという手法を選んだ。


「絹依お嬢様。怖いです。とても」

「あ、あら、千代子。いつから其処に?」

「つい今しがたにございます」


 ほぼ、絹依の専属女中メイドとなっている千代子は、確か絹依よりも三つほど年上だった気がする。田舎では食べるに困り、慣れない帝都東京に出てきて職を探し、今現在は住み込み女中として立派に働いている。毎月、田舎の両親への仕送りも欠かしていないようだった。

 絹依が、何か用でもあるのかと尋ねると、食堂ダイニングに飲み物と軽食を用意したので声をかけに来たのだという。『軽食』の二文字に気持ちが揺らいだが、気持ちよさそうに眠っている薫を起こすのは忍びない。うーん、と唸っていると、薫がもぞもぞと動き出して目覚めてしまった。


「ぅ……? ぬいねえさま……?」


 寝起きの薫が、舌っ足らずに絹依を呼んだ。あまりの可愛さに発狂しかけた絹依であったが、そのような感情はおくびにも出さず、にこりと微笑みを浮かべる。


「あら。かおくん、ごめんなさいね。起こしてしまったかしら?」

「いいえ。ちょうど目が覚めたところだったんです。……それよりも、僕ってば、ぬい姉様のお膝の上で寝てしまうなんて。幼い子供みたいで恥ずかしいです」


 薫は身体を起こすと、羞恥に頬を染めた。その恥じらう姿があまりにも可憐で、絹依は「んんん」と咳払いをして、どうにか平静を装った。次いで、薫に足の痺れを心配されたが、薫の小さく愛らしい頭で痺れるならば本望である! と、心中で叫んだのち、心配しなくても大丈夫だと伝えた。

 絹依と薫のやり取りを眺めていた千代子は、病的に義弟を愛する絹依を見て、微笑ましくも複雑な気持ちを抱いた。いつかはそれぞれ別の異性と結婚し、離れ離れにならなければならないのに、と。――千代子の心配は取り越し苦労である。

 れど、吾桑伯爵が薫に話した婚約の件を知らないのだから、千代子が心配してしまうのは仕方のないことであった。


「かおくん、これから一緒に食堂へ行きませんこと?」

「食堂に……ですか?」

「千代子が来て教えてくだすったの。飲み物と軽食が用意してあるのですって!」


 寝ぼけ眼をコシコシと擦っていた薫の腹から、くうぅ〜と可愛らしい腹の音が鳴って、一同は沈黙したのちに、ウフフ、ホホホと笑ったのであった。

 然れど薫本人だけは、白皙の肌を真赤に染めて、恥ずかしそうに腹を押さえていたのであるが。


「さあ、行きましょう! かおくん」

「はい! ぬいお姉様」


 二人は仲良く手を繋いで廊下に出ると、小走りで一階へ続く階段を降りていった。その微笑ましい様子を笑顔で眺めていた千代子は、開け放たれたままの窓を閉め、薫にかかっていた木綿の単衣を畳んだ。しかる間、階段を駆け上がってくる足音が聞こえたかと思えば、絹依と薫に名を呼ばれた。


「はい! 今すぐ参りますわ。……ほんに、仲の良いご姉弟ですこと」


 千代子は、ふふっと笑って、木製の扉を静かに閉じたのであった。



◆◇◆◇◆◇



 その晩の夕食の席で話題に上がったのは、もっぱら蒸気機関車の話についてだった。軽井沢へは蒸気機関車に乗っていくのだと父が言った途端、薫の大きな空色の瞳が綺羅綺羅と輝き始めたのである。薫は、大好物のライスカレーを食べる手を止めて、父が語る蒸気機関車の話に夢中になっていた。


「……殿方って、どうしてこの手の話題になると、こうも盛り上がるのかしら? わたくしは、全く面白味を感じないのだけれど」

「そうねぇ。お母様もあまり興味を引かれないわねぇ」

「そうでしょう?」


 絹依はスプーンでライスカレーをすくうと、小さな口でぱくりとんだ。あまりにも美味しすぎて、ほっぺたが落ちてしまいそうだと思いながら、もう一口ぱくりと食べた。――絹依にとっては、温かいライスカレーがすっかり冷えて、美味しくなくなってしまう方が大きな問題に思えるのだが。


「お父様、かおくん。せっかくの美味しいライスカレーが冷えてしまいますわ。お喋りはそのへんになさって、手を動かしたらいかがです? 蒸気機関車の蒸気より、ライスカレーの湯気が消えてしまう方が一大事でしてよ?」


 絹依がスプーンの先を突きつけると、父と薫は目を丸くしたのち、プッと吹き出して笑い始めた。――何か笑われることでも言っただろうか? 


 絹依は首を傾けたが、二人とも笑うばかりで説明をしてくれやしない。隣に座る母に助けを求めようとしたが、母まで笑っているではないか。


「もうっ! なんなんですの? みんなして!」


 ふん! と、怒りのままにカレーを頬張ると、綺羅綺羅ときらめく空色の瞳と目が合った。


「ぬい姉様……栗鼠リスみたいでかわいい……」


 薫の言葉が引き金となって、父と母は、ハハハ! ホホホ! と、声を上げて笑い出した。其れに驚いた薫は、「えっ? えっ?」と二人を交互に見て困惑している。


「ぬ、ぬい姉様……僕、何かおかしなことを言ってしまいましたか? 僕はただ、ぬい姉様がかわいくて……」

「……かおくんは悪くありませんわ。お父様とお母様のことは放っておきなさい」

「はい! ぬい姉様っ」


 父と母に笑われるのは腹が立つが、薫に『かわいい』と言われて気分が良かった絹依は、薫と微笑みを交わしながらライスカレーを食したのであった。


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