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第九話 吾桑絹依 弐

 ――大正十年、八月上旬。

 東京駅から軽井沢駅まで蒸気機関車に乗って移動してきた絹依達一行は、沢山の乗降客の間を縫って駅構内から出ると、およそ一年ぶりに嗅ぐ軽井沢の自然の香りを肺いっぱいに吸い込んだ。


「相変わらず軽井沢ここは、自然豊かで空気が澄んでおりますわね。――そうは思いませんこと? かおくん」

「はい! ぬい姉様のおっしゃるとおりだと思います」


 ふわりと微笑んでみせた薫の頭をひとなでして、絹依と薫は仲良く手を繋いで、迎えの車が待っているであろう場所へと向かった。

 今回の軽井沢には、父と母、絹依と薫の他に、女中頭と女中の千代子。父の執事と副執事の計八名が訪れていた。目的の場所へ辿り着くと、別荘の管理を任せている管理人老夫婦の夫――松之助まつのすけが、黒塗りの車の運転席から降りて深々と頭を下げた。


「今年もお待ちいたしておりました。――旦那様と奥方様はこちらのお車へどうぞ。お嬢様とお坊ちゃま、使用人の方々には、それぞれタクシーを呼んでおります」

「ああ、わかった。今年も暫しの間、よろしく世話を頼むよ」

「わたくしからも。よろしゅうお頼み申します」

「はい。もちろんにございます。精一杯、皆様のお世話をさせて頂きたいと思っております。――では、お荷物を荷台に積みますので、そのかん少々お待ち下さいませ」


 父と母が挨拶を済ませて、同行してきた使用人達も松之助を手伝い始める。すると、あっという間に、沢山あった荷物は積み終わってしまった。


「では、皆様。そろそろ出発致しますので、お車にご乗車下さいませ」


 それぞれ車に乗り込んだ一行は、自然豊かな美しい緑の風景と、遠くの離山を眺めながら別荘地を目指す。ぽつぽつと点在している別荘の横を通り過ぎ、森の中を通る舗装された道を走り抜けると、小さな湖の近くに建つ吾桑家の別荘へ到着した。

 深い赤の煉瓦色れんがいろをした腰折れマンサード屋根には屋根窓が多数あり、小屋裏を部屋として使用できるようになっている。左右対称の外観をした洋館造りの別荘は、円柱構造のポーチが目新しい。外壁は、一階が鎧の下袖に似た下見板張したみいたばりりで、二階は薄墨色の化粧漆喰スタッコ仕上げになっている。

 室内は、一見すると和室のように感じるデザインになっている。が、実は完全な洋室となっていて、暖炉のある広い居間や揺り椅子ロッキングチェアを置いた露台ベランダは、絹依と薫のお気に入りの場所であった。

 洋館の裏手には、小さな湖もあり、小舟ボート遊びを楽しむことができる。昨年の夏は、腕が痛んでオールを動かせなくなるまで、絹依と薫は何度もボート遊びを楽しんだものだった。


「かおくん、着きましたわ」

「はい、ぬい姉様!」


 タクシーが停車すると、絹依は運転手のエスコートを待たずに、後部座席の扉を開け放った。次いで薫の手を取り、白いワンピースの裾をはためかせながら、キャッキャと笑ってポーチを目指す。ポーチには、白い割烹着姿をした初老の女性――松之助の妻である梅子の姿があった。

 梅子は、弾けるような笑顔で真っ直ぐポーチに掛けってくる仲の良い姉弟の姿を見て、眩しげに目を細めた。


「梅子さーん!」


 元気いっぱいに手を振る絹依に、梅子も笑顔で手を振り返す。


「これ、絹依さん! はしたないですわよ!」

「はーい! ごめんなさーいっ」


 母に注意されるも、それすらも楽しそうに笑う絹依を見て、梅子はたまらずホホホと笑い声を上げた。

 やがてポーチに辿り着いた絹依と薫は、息を弾ませながら額に滲んだ汗をそのままに、梅子の元へ駆け寄った。


「梅子さん、お久しぶりですわ」

「お久しぶりです、梅子さん」

「今年もようこそおいで下さいました。お嬢様とお坊ちゃまの元気なお姿を拝見することが出来て、梅子はとってもうれしゅうございます」


 梅子の言葉に顔を見合わせた絹依と薫は、フフフ、エヘヘと笑い合う。


「さぁさ、お二人とも。喉が乾いておいででしょう? 梅子特製のレモネードをご用意しておりますよ」


 絹依と薫は、わあっと喜びの声を上げて、玄関扉を開けた梅子の後ろに続いたのだった。



◆◇◆◇◆◇



 少し早めの昼食を済ませた絹依と薫は早速洋館の裏手に回ると、湖の畔に敷物を敷いてその上に座り、さざめく湖面と心地よい葉擦れの音を聞いていた。


「湖面で冷やされた風は涼しいですわね、かおくん」

「はい。土の香りに混じって、湖の端に咲く蓮の花の甘い香りが香ってきて、とても風流です」

「あら、かおくんったら。まるで詩人のようなおっしゃりよう! 将来は詩家になるのかしら?」

「も、もう! からかわないで下さいっ! ぬい姉様っ」

「あら。かおくんったら、照れてらっしゃるの? 可愛いお顔が真っ赤になっておりますわよ?」


 ウフフと笑う絹依の横顔に、ぼうっと見惚れる薫に気づかずに、絹依は風にさらわれた黒髪を耳に掛ける。絹依は人魚のように横座りをして、縁にフリルの付いた真白な日傘の中棒を右肩に乗せ、藤で作られたハンドルをくるくると回した。其の姿は名画に出てくる乙女のように清純で美しく、ピチチと煩く鳴いていた鳥たちも静まり返り、生きとし生けるもの達全てが絹依に視線を奪われているようであった。


 ――其の姿に、風が嫉妬したのだろうか?


 突然強風が吹き、絹依が被っていたつばの広い真白な帽子が、風にさらわれて空高く舞い上がった。絹依は日傘を放り出して立ち上がり、精一杯手を伸ばしたが、其の細い指先に触れられることを拒んだ帽子は、舞い踊るようにひらりひらりと空を泳いでいってしまう。


「わたくしの、お気に入りのお帽子でしたのに……」


 このままだと、湖に落ちて使い物にならなくなってしまうだろう。絹依が諦めかけた時、シュッとテグスの音がした。しかうして濡れる寸前だった帽子は、釣り竿を肩に掛けた、ある一人の青年の腕の中に収まった。


「あなた様は……」


 絹依は中途半端に腰を上げて、持っていたお気に入りの日傘からスルリと手を離した。其の様子を、驚いた表情で見つめる薫の存在など忘れてしまったように、絹依は目の前の偉丈夫に釘付けになったのであった。


 果たして、これは、絹依の一目惚れなのであろうか――?

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