魔王は物凄いスピードで書類に目を通していく。先程、宰相であるテオドールに手渡された書類の束をあっという間に片付けていた。
(すごいなぁ、魔王)
書類は羊皮紙で、使っている文房具は羽ペンだ。
(羽ペンなんて初めて見る。綺麗な羽根)
美夜は魔王の膝の上に腰を下ろして、しげしげと羽ペンを眺めた。
白い鳥の羽をイメージしていた美夜だが、魔王が使うのは漆黒の羽ペンだ。カラスの羽根を使っているのだろうか。艶のある美しい羽根のペン。
それが忙しなく動く様子を眺めていると、美夜はむずっと尻を浮かせてしまった。動くそれから目が離せない。
無意識に腰をふりふり振ってしまい、気が付くと、獲物を狙うポーズを取っていた。
そんな子猫の様子に気付いた魔王アーダルベルトが、ふと端正な口許を綻ばせた。
面白いものを見つけた、とでも言いたげに瞳を細めて、くつりと喉の奥で笑う。
魔王は手にした羽ペンをゆっくりと左右に揺らした。つられて美夜の頭もゆらゆら揺れる。
「どうした、勇者。その程度か?」
「みゃ(魔王ムーブもういいから)」
上下左右、ふらりと舞う羽ペンの動きがゆっくりになった瞬間。
今だ! ぱっと飛び上がって漆黒の羽根を捕まえる子猫。小さな前脚で押さえつけて、ころんと転がりながら、羽ペンに噛み付いた。
子猫の小さな牙では傷ひとつ付かないけれど、ちょうど口の中が痒かったので問題ない。
「なかなかやるな、勇者よ」
「ミャミャッ」
仰向け状態で羽根部分に噛みつき、後ろ脚で蹴りつける行為がとても楽しい。
捕えた獲物に熱中する子猫を、立派な黒壇の執務机に向かう魔王アーダルベルトが瞳を細めて、楽しそうに見下ろしている。
何だ、これ。美夜の中の理性的な「人」としての意識が突っ込むが、ふわふわの毛皮を纏った「子猫」の意識は夢中で羽ペンにじゃれついている。
時折、魔王が楽しそうに羽ペンを取り返し、目の前で振るものだから、性質が悪い。
「ふはは。どうした、勇者。これがそれほどに欲しいのか、ん……?」
「ふみゃああ!」
子猫は怒りの雄叫びを上げた。本能には逆らえない。動くものは、獲物。この、ひらひらの黒いのを狩らなければならない。
なのに、どうして邪魔をするのか。
(卑怯だよ、魔王……!)
リーチの差がこんなにあるのに、自分から獲物を取り上げるなんて。
「ニャッ!」
魔王の手をぱしりと引っ叩いたところで、相好を崩されるだけなので、美夜は絶望する。じゃれるのを止めたいのに、狩猟本能が抑え切れない。悔しい、こんな羽ペン相手にっ!
羽ペンでの猫じゃらしが佳境に入ったところで、ようやく救いの手が割って入ってくれた。
「いい加減になさいませ、アーダルベルトさま」
優しい手付きで抱き上げられて、美夜はようやく我に返った。
暖かくて柔らかい、良い匂いに包まれて、途端に瞳孔が開いた狩人から可愛い子猫に逆戻り。
喉元を指先でくすぐられるように撫でられた美夜は、目を細めて喉を鳴らした。
(この匂いは、侍女長!)
とても綺麗なエルフの侍女長さんは、魔王の乳母。
そのため、強面な最強魔王サマでも唯一頭が上がらない存在だった。
「ここしばらくミヤさまに構ってばかりで、溜まっていた書類仕事を片付けるのでしょう?」
「仕事はしている。今のは、その、ちょっとだけ休憩していたのだ。勇者も退屈そうだったからな」
「嬉々として遊んでおりましたよね? それと、私も色々と異世界の文献を調べましたが、この月齢の子猫は一日の殆どを寝て過ごすそうですよ? ミヤさまの睡眠の邪魔をしてはなりません」
「なに……? 一日の殆どを寝て過ごすだと」
「はい。基本は食事をして、寝て、食事をして、排泄、少し遊んでは寝て、食事をして眠る。そういった一日を過ごすようですわね」
「そんな生き方をしていたら、いつまで経っても私に挑めないではないか、勇者よ!」
間近で叫ばれて、美夜は迷惑そうに顔を背けた。
せっかく侍女長に撫でられて、気持ち良く眠れそうだったのに。魔王、邪魔!
もぞもぞと侍女長の胸元に潜り込んで眠ることを選んだ子猫の姿に、魔王アーダルベルトはショックを受けていた。
うふふ、と誇らしげに微笑んだ侍女長は「アーダルベルトさまのお仕事の邪魔になるようですから、あちらでお昼寝しましょうね、ミヤさま」と囁き、颯爽と魔王の執務室を後にした。
仕事が終わらないと、可愛い子猫ちゃんとは遊ばせませんよ?
侍女長の無言の圧力に、魔王は膝を折った。
◆◇◆
そんなこんなで、ふかふかのクッションが敷き詰められた魔王ベッドでお昼寝を堪能した美夜は、小腹が空いて目が覚めた。
小さく伸びをして、キョロキョロと周囲を見渡す。誰もいない。
広くて豪奢な魔王の寝室だ。ベッドから降りようとするが、それなりの高さがあり、飛び降りるのは諦めた。猫ではあるが、いまだ生後一ヶ月の子猫なのだ。仕方ない。ふつうに怖い。
小さな爪をベッドカバーに引っ掛けて、そろそろと降りる方法で難所を乗り切った。高価なファブリックに穴が空いたことは気にしない。だって猫だし。
都合の悪いことは全て「猫だし」で誤魔化すことにした美夜である。
わりと皆、笑顔で誤魔化されてくれるので問題はなかろう。
ふかふかの絨毯の上を転がりながら探検するが、食べられそうな物は何もない。きゅう、と切なく鳴く腹はぺたんこだ。
なんて燃費の悪い身体なのだろう。悲しくなって、ついつい鳴いてしまう。
「ごあああん(ごはーん)」
だけど、魔王の寝室の重厚なドアは閉ざされたまま。小さな子猫の鳴き声は誰にも届かない。
みうみう泣きながら、ドアに爪を立ててカリカリさせるが、誰の足音も聞こえなかった。
「みゅ、……みゃおーう!(魔王ー!)」
我慢ならずに、そう切なく鳴いた瞬間、すぐ背後に人の気配。
振り返るより先に逞しい腕に抱え上げられた。
「どうした、勇者! 何があった? また、あの人族の王に何かされたのか! おのれ、すぐにでも国ごと滅ぼしてやろうか」
「みゃおう……(魔王……)」
ちょっとだけ呆れた視線を向けてしまう。未だ人族の王とやらに悪態を吐く唇を、ふわふわの肉球を押し当てることで黙らせた。魔王はチョロいのだ。
きっと、今のこの姿の美夜が壁ドンしたら、イチコロだ。
「どうした、勇者」
「みう」
ぷにぷにした肉球にそっと手を添え、唇を押し当ててくる美貌の魔王。
さらりと長い紫がかった黒髪が揺れる。キスするついでに肉球の匂いを胸いっぱいに嗅ぐのはどうかと思うが、自分の呼び掛けに唯一気付き、文字通り跳んできてくれたのは、彼なのだ。
「みゃおう」
魔王、と呼び掛けると、嬉しそうに破顔する。なので、美夜は力一杯おねだりした。
「ごあああん!」
ご飯ください、はよ。
◆◇◆
「ハチミツ入りのホットミルクだ。ドワーフ領自慢の極上山羊ミルクに最高峰のクイーンビーのハチミツだぞ? 猫舌のお前に合わせた、ぬるめの温度だから、安心して舐めるがいい、勇者よ」
魔王の膝を独占してのランチタイムは、もう慣れたもの。手ずから食べさせてくれるので、とても楽だ。スプーンにすくって口元まで運んでくれたホットミルクを舐めると、すかさず美人なメイドさんが口を拭いてくれる。うむ、よきにはからえ。
「これが魔魚か。勇者が食べても問題はないのだな?」
「はい。赤身の魚で毒もありません。食べやすいように細かく刻んでおります。ミヤさま、お味はいかがですか?」
「ンミャイ!」
マグロのたたきが異世界で食べられるとは。しかも、極上のマグロ。トロが食べたい。中トロ、ぷりーず! 中落ちでもいい。もしかして、大トロもあったりする?
きょろきょろしていると、魔王が差し出すスプーンに乗ったマグロがポロリと落ちた。美夜が身動いてしまったからだ。慌てて落ちたマグロを追いかけて、魔王のてのひらを舐める。
貧乏学生にはマグロは高嶺の花なのだ。そりゃあ必死になるというもの。
「ぐっふううう……!」
「アーダルベルトさま、しっかり! 傷は浅いですよ!」
何やら頭上から妙な呻き声が聞こえるが、知ったことか。綺麗にてのひらを舐め終えると、満足して元の場所に戻った。
さぁさぁ、次のご飯はなぁに?
こてんと小首を傾げながら配膳係のメイドさんを見上げると、黄色い歓声と共にご馳走がたくさんテーブルに並べられた。
ステーキだ! 尻尾がピンと立ち上がる。
「なうなう!」
「分かっている。そう急かすな、勇者よ」
こほん、と咳払いした魔王がステーキを小さく切り分けて、てのひらを差し出してきた。
皿やスプーンではなく、手にのせて。
「にゃ?」
なんで?? 不思議に思ったが、食欲には勝てない。
大喜びで謎肉のステーキに飛びついて、はぐはぐと咀嚼する。魔王が何やら恍惚としているが、食欲の赴くままに美味しいお肉を堪能した。
「ふふ。美味しいですか、ミヤさま? それはブラックブルという魔獣の肉で、魔王さまに献上された極上の逸品なのですよ。アウローラ王国でも滅多に手に入りません」
マジか。魔王サマすごいな。尊敬の眼差しで見上げると、魔王は誇らしげに胸を張っている。
うん、嬉しそう。感謝の気持ちを込めて、てのひらをぺろりと舐めてやると「ぐふ…っ! 何という攻撃!」と身悶えしている。攻撃じゃないよ、お礼だよ?
高級食材を、お腹いっぱい満喫した。ぽっこり膨れたお腹を、魔王がまじまじと眺めている。
お腹を突こうとした悪戯な指先にはこうだ! はしっと捕まえて、甘噛みする。
「ふ、まだまだだな、勇者。その程度の攻撃では私は倒せんぞ」
子猫VS魔王の指先の戦いは、魔王の圧勝で終わった。
耳の後ろやふくふくの頬、額や喉元を優しくくすぐられたら、子猫はすぐに夢の世界に飛び立ってしまうので。
「もう寝たのか、勇者……ミヤ?」
「お可愛いらしいですわね。そういえば、アーダルベルトさま。生誕の宴にはミヤさまもご招待されますの?」
眠りに落ちる寸前、そんな会話が耳に入ってきた。
「まさか。勇者を憎む魔族も多い。そんな中、コレを連れて行けるはずもない」
「では、ミヤさまは私どもでお相手を」
「……あまり構いすぎるなよ」
「ふふふ。もちろん、我が王の仰せのままに」
そっと柔らかな寝台に寝かされたのと同時に、美夜の意識は完全に闇に沈んでいた。