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第16話 魔王の生誕祭1

■ 第六章 魔王の生誕祭


 帝国から勇者を奪ってきてから、やけに体調がいい。


 アーダルベルトは書類に目を走らせながら、膝上のぬくもりに意識を向けた。視線は書類に落としたままだ。サボっていると、宰相と侍女長に叱責されてしまう。

 膝の上では純白の毛並みの持ち主である、小さな勇者が眠っている。

 薄汚れていた毛を丁寧に洗い上げれば、見違えるほどに綺麗になった毛玉だ。猫という異世界の獣の仔──子猫である。


 スキル【鑑定眼】で調べたところによると、この子猫は間違いなく、勇者であった。

 こんな生まれたばかりの小動物が? と不思議に思ったが、どうもこの勇者は偶発的に二つの魂が融合した存在らしい。どうりで、とすぐに納得した。

 なにせ、この子猫な勇者。小さな脳みその持ち主にしては、とても聞き分けがいい。


 獣人の仔は生まれたばかりの頃は【人化じんか】する術を知らず、四つ足で育つ。見た目はほぼ、獣だ。狼獣人の赤子など、本物の狼の仔と区別がつかないくらいにそっくりなのである。

 魂も肉体に引きずられるらしく、頭の中身も四つ足の獣の仔と変わりない。

 泥だらけになりながら、外でころころと遊ぶ姿は野生の仔狼そのものだ。


(だが、勇者は違う。多少、理性が本能に負ける瞬間はあるにせよ、こちらの話を聞き分けているように見える)


 伝えたいことは鳴き声と視線で訴えてくるし、侍女長の言葉には絶対服従というくらい、聞き分けがいいのだ。……魔王である自分の命令はたまに無視することがあるくせに。


(つまりは、勇者ミヤは私たちの言葉を理解できるほどの知能の持ち主。または、その魂を持つ者)


 おそらくは、小さな子猫の肉体に、本来の勇者の魂が入り込んでしまった状態ではないか。

 この召喚勇者について内密に相談した賢者は、そう推測している。

 ひとしきり思案して、魔王であるアーダルベルトが下した判断は様子見、だった。

 膝の上で平和そうに眠る子猫はいかにも無力に見える。

 実際、この勇者はとてつもなく弱い。まともな戦い方すら知らないように思える。

 城に勤める文官の使い魔である蜘蛛を目にしただけで、尻尾を膨らませて怯えたくらいだ。

(蜘蛛だぞ? 魔蟲まむしであるアラクネでもなく、親指サイズの伝言魔法しか使えない最弱の使い魔。いくら小さな姿とはいえ、踏みつければ潰せる虫だ。あれを怖がる存在がいたとは……)

 ぺたりと耳を寝かせて、背中の毛を逆立てて。

 初めてこの自分を見た時のように、あの妙に心が騒ぐ不思議な踊りを見せて威嚇していた。もっとも、使い魔蜘蛛が戸惑いながら近寄ると、その場でこてんとひっくり返って腹を見せた。

 魔王はもちろんのこと、使い魔の蜘蛛も仰天した。ありえない。

 獣の最大の弱点である腹を見せて、降伏のポーズを取ったのである!


(情けないぞ、勇者! それでも我が宿敵か!)

 つい、そう叫んでしまったとしても、悪くはないはずだ。

 あんまりにも情けない姿で。それと同時に、とても庇護欲を掻き立てるポーズに動揺したのだ。

 だが、アーダルベルトが仰向けに寝転がる子猫をそう詰った瞬間、その場に居合わせたメイドに侍女長、通りすがりの文官にまで冷ややかな眼差しを向けられてしまった。解せない。

 ぴいぴいと哀しげに泣く子猫を侍女長は優しく抱き上げて、母性溢れる表情でそっと背中を撫でてやっていた。ひしっと勇者にしがみつかれた侍女長が「あらあら」などと口にしながら、一瞬だけドヤ顔をこちらに披露したこともアーダルベルトは忘れていない。

 子猫に抱きつかれて羨ましいとか、思っていないのだ。絶対に。くそ。


 ともあれ、此度こたびの帝国が行った召喚儀式で呼び出された勇者ミヤは、ステータスで確認した通りに最弱で、脅威にはなりそうにないと、アウローラ王国ではそう判断を下した。

 そんなわけで、かの子猫は引き続き魔王の客人として、城でのんびりと暮らしている。


 とはいえ、こんな姿でも一応は勇者。

 魔王たるアーダルベルトの監視が必要という大義名分でもって、執務中は膝の上が定位置だ。

 当初の警戒心はどこへいったのか。呑気にぴすぴすと寝息を立てながら熟睡している勇者を見下ろしていると、何とも言い難い気持ちが湧き上がってくる。


(かわいい。触りたい。抱き締めて、存分に匂いを嗅ぎたい)


 油断すると、その柔らかな純白の体毛につい手が伸びそうになるのを、アーダルベルトは理性で抑え込む。

 数多の美女に誘惑されようとも、その鉄壁の無表情は崩れなかったというのに。

 この小さな毛玉にしか見えない勇者を前にすると、そんな衝動に突き動かされそうになってしまうので、大変危険だった。

 魔族の王たるアーダルベルトが最弱な勇者に翻弄されている姿を、なぜか城の者は皆、微笑ましそうに見つめてくる。意味が分からない。


「ふふ。アーダルベルトさまが生き生きとされているから、皆は嬉しく思っているのですよ」

 すっかり中身の冷えた紅茶を淹れ直しながら、侍女長が口元を綻ばせる。

「……そんなことはないと思うが?」

 戸惑うアーダルベルトが傍らに立つ宰相を見やる。

 主君に見詰められたテオドールは小さく咳払いをすると、すっと視線を逸らせた。

「──生き生きとされているかは不明ですが、以前よりも肌艶は良くなっていらっしゃるかと」

「ああ、それは私も思いましたわ。目の下のクマも消えて、顔色も良くなっておりますね。きっと、ミヤさまのおかげです」

「勇者の?」

 そういえば、勇者を連れて帰ってから、やたらと体調がいい。

「寝起きも良くなっているようですし、熟睡できているのでは?」

 魔王の体調を本人よりも熟知している侍女長の指摘に、アーダルベルトは頷いた。

 仕事が多忙すぎて、ここ数年ほどは睡眠時間を削って働いていたが、最近は就寝が早い勇者に付き合い、早々に寝室に引っ込むようになっている。

 やたらと寝付きのいい子猫はベッドに横たわるなり、すとんと眠ってしまう。

 その平和そうな寝顔を眺めていると、不思議とアーダルベルトも穏やかに眠りにつけるのだ。

「不眠症が治られたようで、喜ばしいことですわ」

 嬉しそうに微笑む侍女長から、アーダルベルトはぎこちなく視線を逸らせた。


 最初は、アーダルベルトもよく眠れなかったのだ。

 なにせ、あんなに小さな子猫なのだ。無造作に寝返りを打った先で押し潰してしまわないか、と心配で仕方なかった。


(だけど、そのうち、腕枕にも慣れてきて……)


 腕の中の小さなぬくもりと安らかな寝息を感じると、不思議と安堵を覚えるようになって。

 不眠症であったはずのアーダルベルトは、八時間睡眠をきっちりとれる体になっていた。


「それに、最近はきちんと食事をされているようですし、好き嫌いもなくなりましたわね?」

 子猫の食事とおやつに付き合う内に、規則正しい食生活になっただけだ。

「各部族から、大量の供物があったからな。勇者が口にする前に、それらの味見をする必要があったから、仕方なくだ」

 淡々と説明するが、侍女長の笑みは深くなるばかり。

「執務の間に適宜、運動をされているおかげで、体調もよろしいのかと」

 宰相のテオドールまで、端整な口元を微かに綻ばせながら褒めてきた。とても珍しい。


(いや、これは褒めている……のか? 運動と言うが、あれだろう? 勇者をじゃらして遊ばせてやっている──)


 執務に飽きたアーダルベルトが膝の上の子猫を羽ペンや自身の長い髪先を振って、構ってやっているだけなのだが、これが意外と良い運動になるのだ。

 単調な動きだと、子猫はすぐに飽きる。大仰に動かしすぎても、食い付きが悪い。子猫の興味を引く、小さな爬虫類などの動きに似た動作を真似る必要があるのだ。この塩梅あんばいがなかなか難しい。

 子猫は長い紐状のものや、先端に毛が付いた棒のような物を特に好んでいるようだ。

 数日間、子猫を観察していたアーダルベルトはそう決断を下した。

 手先の器用なメイドに頼み、そのような玩具を作ってもらおう、などと考えているアーダルベルトをよそに、侍女長が感極まったかのように歓声を上げた。


「まぁ……! やはりミヤさまのおかげでしたのね。たっぷりの睡眠、良質なお食事、適度な運動。アーダルベルトさまが健やかでいらっしゃって、私はとても嬉しく思います。ミヤさま、ありがとうございます」

 唐突にお礼を言われた子猫は、魔王の膝の上できょとんとしている。

「そういえば、賢者さまが可愛らしいペットを飼うと健康にとても良いと仰っておりました。きっと、それですね」

 テオドールがぽん、と手を叩きながら、そんなことを言う。

「いや、勇者だぞ? いくら子猫が可愛くとも、ペットではないのだが……」

「その姿では説得力がありませんよ、陛下」

「う……」

 アーダルベルトは子猫の喉を指先でくすぐっていた手を止めた。無意識に触っていた。

「にゃ?」

 なんでやめるの? 不思議そうに見上げてくる、無垢な瞳が胸に刺さる。

 にほん、という異世界出身の賢者の言葉は、どうやら部分的に正しいことを認めるしかない、アーダルベルトだった。


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