トワイライト帝国の皇太子、リチャードは政務を終えた疲れた身をソファに委ね、北方より取り寄せた極上のワインを楽しんでいた。
ほどよく熟成された赤い果汁はとろりと喉を滑り落ちていく。酒精が強いため、酔いはすぐに回ってきた。だが、いつもは心地よい感覚も今は苛立ちを抑える役にしか立っていない。
それもこれも、あの老人の所為だ──リチャードは小さく舌打ちする。
あの醜い老人──帝国の現皇帝である父は魔王を恐れて、皇宮の奥深くにこもっていた。政務も何も投げ出して、近衛騎士や魔術師に護衛を命じて隠れ暮らしているのだ。
手の者に探らせたところ、側妃や愛人たちをはべらせて、酒浸りでいるらしい。
「酒がなければ、恐怖で震えて眠れもしないなど……臆病者め」
もともと小心者なくせに、アウローラ帝国に戦を吹っ掛けるからだ。
おかげで、魔王の怒りを買って、居城に攻め込まれた。
皇太子であるリチャードはちょうど隣国へ招かれていたので、被害には遭わなかった。
帰宅して、帝国が誇る美しい城が半壊していることに気付いて呆然とした。
そうして城の者から顛末を聞き出して、頭を抱えたのだった。
あの愚かな老皇帝はアウローラ王国を手に入れるため、異世界から勇者を招くための召喚儀式を執り行い、まんまと勇者を魔王に奪われてしまったのだ。
魔王を唯一、弑することのできる異世界の勇者。人間離れした強さを誇る勇者だが、召喚されたばかりの頃は戦いを知らない者も多い。そこを、魔王に狙われた。
(せっかく数多の犠牲のもとに召喚した勇者だが、すでに魔王に殺されていることだろう)
魔王が己を殺すための存在をむざむざ生かしておくわけはない。
まったく厄介なことだ──忌々しい気持ちで嘆息する。
「勇者召喚の儀式を行うための、魔術の塔は魔王に破壊されてしまった。これでは、もう異世界から我が国を救ってくださる勇者を呼ぶことはできない……」
古の知識は帝国から失われて、
もはや、あらたに異なる世界から勇者を招くことは不可能だろう。塔に直接仕込まれていた魔法陣は魔王によって粉々に破壊され、修復は絶望的。
魔術師に術式を記録させている途中だったのだ。
複雑で繊細な術式を再現するのはただでさえ難しいのに、搔き集めた魔法陣の欠片は足りない箇所があまりにも多すぎて、埋める作業はもはや不可能に等しい。
「父上にはその責を取ってもらい、ご隠居を願わねばなるまい」
大仰に芝居がかったセリフをこぼすと、傍らに立つ宰相が軽く顎を引いて頷いた。
「おそれおおくも、皇帝陛下は体調を崩されたようですので、政務につくのは難しいでしょう」
皇宮にこもって惨めに怯えて暮らす老人は、もはや威厳の欠片もない。
トワイライト帝国の皇帝の座にずっとしがみついていた執念深い老人を、これでようやく権力の座から追い落とせる。
次期皇帝として生まれ落ちて、はや七十年近く。百を越えた年齢なのに、父は皇帝の座から降りようとはしなかった。
不老長寿のエルフの秘薬を使っても、老いの兆しからは逃れられない。
老齢に近くなっても、未だに彼は皇太子。
化け物のような父より先にこの自分が寿命を迎える方が早いのではないか。
そんな不安に苛まれていたのだが、魔王の襲撃により、ようやく自分にもチャンスが巡ってきた。
「皇帝陛下には静養が必要だ。皇族の直轄領にある地へ速やかにお送りせよ。豊かな自然に囲まれた場所ならば、気の病にも良いはずだからな」
「は、仰せのままに」
眉ひとつ動かさずに、宰相が軽く一礼する。
静養地とされている直轄領のとある別荘は、皇族の墓場と呼ばれている場所だ。
権力の座から転げ落ちた負け犬を飼い殺しにする場でもある。
(落ち着いた頃合いに、父には退場してもらう。この世から)
万一、気力を取り戻して、ふたたび皇城へ戻ってこられると厄介だ。今後の平安のためにも、禍根は絶たねばならない。
「そうだな……。陛下には心穏やかに過ごせるよう、鎮静の効果のある茶を毎日お出しするように言い含めておきなさい」
心得ました、と一礼する腹心の部下の姿にリチャードは満足げに口角を上げた。
遅効性の毒茶は、代々我が皇族に伝わる秘薬のひとつ。
痕跡を残すことなく、徐々に心身を蝕んでいく。意思を奪い、常に夢うつつの世界に心を遊ばせるようになり──やがて、胸の鼓動が止まるのだ。
苦しむことなく、眠るように命を閉じることができるのだから、父も幸せだろう。
百年近く、玉座に執着していた哀れな老人は、実の息子の手により退場させられるのだ。
「──あとは、アウローラ王国への対抗策が必要だな。勇者との縁はすでに途切れさせられたから、あれを試すことになるか……」
帝国唯一のダンジョンの下層より発掘された石碑。そこには古代語でとある儀式の詳細が刻み込まれていたのだ。
皇帝である父に知らせることなく、リチャードは秘密裏に手配した学者にそれらを解読させたのだった。
そうして、その碑文の内容が『勇者召喚』に次ぐ、帝国を救うための布石だと判明したのである。
「魔術師の長を呼べ。亜人の血も大量に必要とするから、奴隷商にも『注文』しておくように」
赤ワインを満たしたグラスを回しながら、リチャードは宰相に命じた。
「は。……では、ついに?」
「ああ。聖女召喚の儀を行う」