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第16話  過去の香りに包まれて

 あの一件で、アタシとましろの間に見えない壁が生まれてしまった。

 ましろと早く仲直りしなくちゃ。急がないと、この見えない壁を壊せなくなってしまう。

    焦る天使と、「どうせいつものことだ」と余裕ぶる悪魔。2人の言い争いが止まらない。

 天使は「すぐに謝らないと、取り返しがつかなくなるぞ!」と必死に訴える。

 でも、悪魔は「ましろと高校時代から知り合ってケンカもたくさんしたけど、結局仲直りできただろ? 心配する必要なんてない」とアタシの耳元で囁く。


 確かに悪魔の言うとおりだ。アタシとましろは今でも些細なケンカをする。ほとんどが些細なことで、すぐに忘れてしまうようなケンカばかり。

 でも、アタシたちは何事もなかったようにすぐに仲直りできた。

 ましろと同棲するようになってからも、些細な原因でのケンカは絶えないけど、翌日にはお互いに謝って仲直りできた。

 そのうち、「センパイ、唐揚げ作って~」、「センパイ、頭なでて~」と飼い主に甘える子ネコのような可愛い後輩に戻っている。

 アタシとましろの関係がそう簡単に崩れることはない。


「大丈夫、いつも通りになるさ」


 アタシは自分に言い聞かせるように呟いた。そう言わなきゃ、怖くて仕方なかった。


 天使の忠告を無視したアタシは、ましろに「ごめんね」と謝るタイミングを完全に見失ってしまった。

 その結果、アタシたちの会話は減った。

 同じ部屋にいるのに、まるで赤の他人みたいだ。居心地の悪さで息が詰まりそうになる。

 ましろに声をかけても返ってくるのは「うん」、「わかったよ」しか返ってこない。いつもなら、投げればすぐに返ってくる会話のキャッチボール。それが今は、アタシの投げた言葉がましろの手前で、ぽとりと落ちてしまう。


 代わりにましろから飛んでくるのは「洗濯しておいて」、「リビングに掃除機かけておいて」という指示ばかり。

 目を合わさず、ましろが淡々と投げつける指示から、アタシに向けられる感情が読み取れない。


「わかったよ」と、ましろからの家事依頼を黙々とこなすしかない。

 このままじゃダメだ。あの時、悪いのはアタシだ。ちゃんと、ましろに謝らなくちゃ。


「あの、ましろ!」


「なに?」


 アタシが「ごめんね」と口にしようとするも、ましろの機械的で冷たい声が阻む。その声にビビったアタシは喉元まで出た本音を飲み込んでしまう。


「いや、何でもない。バイトに行ってくれるね」


「うん」


 アタシはましろに見送られることもなく、ましろのマンションを出た。

 いつもはベタベタされてウザいと思っていたのに、急になくなる寂しくなる。

 アタシって、わがままな女なんだと思い知らせて重い足取りでバイトへ向かう。


 バイト中も、ましろのことが頭から離れずにいた。

 手慣れたはずの作業で凡ミスをしてしまった。現場リーダーから「クロナさん、どうしたの? 新人みたいなミスするなんて珍しいね」と心配された。アタシは「すみません、ちょっと調子が悪いみたいで」と平謝りをするしかなかった。パートのベテランのおばちゃんから「クロちゃんがこんなミスするなんて珍しいね。何かあったの?」と心配されてしまった。


 やばい、このままじゃあバイト先にも迷惑をかけてしまう。

 早くましろと仲良くしなくちゃ。

 アタシはバイトの作業をしながらも頭の中では、ましろとどう仲直りしようかと考えていた。


「ただいま」


「タバコ臭い……」


 え? アタシ、タバコ吸ったっけ?

 ましろがタバコの臭いを嫌っているから、吸う頻度を昔より抑えている。ましろと同棲する前は、どこでも自由にタバコを吸っていた。

 もちろん、バイト終わりの1本を楽しみにしていた時期もあったけど、ましろの同棲を切っ掛けに部屋のベランダ以外でタバコを吸わないようにしている。


 もしかしたら、パートのおばちゃんが吸っていたタバコの残り香が上着に移ったのかもしれない。


 アタシは慌てて上着の匂いを嗅いだ。タバコくさい。しかも、これはブラッキーの香りだ。この独特の甘ったるい香りは他のタバコにはない。

 しまった。バイト終わりに近くの公園で1本吸っちゃったんだ。

 無意識にタバコを吸っていたなんて。もう中毒者だな。

 それよりもタバコの臭いを消してから部屋に入るという、ましろから出されたこの部屋で暮らす際の唯一のルールも破ってしまった。

 アタシ、タバコに逃げたんだ。いや、違う。アイツの匂いに包まれたかった。忘れなくちゃいけないと分かっているのに。忘れられない。


「わるい」


 ましろは無言で、乱暴にお気に入りの消臭剤をアタシの手に押しつける。「くさいから、これで臭い消してよ」という圧力を感じずにはいられない。

 アタシは黙って受け取ると、犯罪をもみ消すようにタバコの臭いを消臭剤の匂いで上書きした。

 よし、タバコの臭いが消えた。


「ましろ、今からご飯作るからお前の好きな唐揚げ作ってやるよ」


「いいよ。もうボク食べたから」


「え?」


 ましろの声は冷たい。コンクリートの壁にボールをぶつけたみたいな反響音がアタシ心に刺さる。そう言い残すと、自分の部屋へと消えて行った。

 どうしよう。ましろとの距離がどんどん離れていく。こんなに近くにいるのに。

 アタシの居場所がどんどん無くなる。

  『しろ×クロちゃんねる』にも、この部屋からも。


「いやだ……いやだよ、アタシから居場所は奪わないで」


 自分らしくいられる居場所を奪われる恐怖がアタシを襲う。

 寒くないのに身体がガタガタ震える。


「た、助けて……ハイト」


 アイツの香りに包まれたい。アタシはベランダに逃げ込んでブラッキーに縋るように、口に咥える。

 震える指がジッポライターのフリント・ホイールを弾く。カチッ、カチッと音は鳴るのに火が出ない。

 早く点いてよ! 慌てるアタシを笑うようにジッポライターの乾いたカチカチ音だけがベランダに響く。


「点いた!」


 ブラッキーに火が点くと、慌てて肺へと煙を送り込む。

 まずい。こんなタバコに救いを求めたくない。

 だけど、今だけはこのタバコを吸わなくちゃ生きていけない。

 アタシが壊れちゃう前に、アイツの匂いをまといたい。


 アタシは涙を流しながら、ブラッキーを吸った。

 やり場のない気持ちを煙に乗せて吐き出した。


 でも、アタシの想いは誰にも届かない。ましろにも、ハイトにも……。

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