これまでの間、シアンは心臓が凍りつきそうな場面に何度も遭遇してきた。嫁いできた最初の日に夫がいきなり死にかけた時、アルベルトを害そうとした疑いで投獄された時。無事に釈放された後も自分以外のお妃が現れたり、彼女たちに嫉妬心を抱いたり、一緒にダンスを踊れない自分の状況を悲しんだり、何度も何度も心が切り裂かれるような痛みに苛まれてきた。しかし、これまで感じてきた痛みがまるで可愛らしく思えるほど、この白獅子の王子が指摘した事実は、シアンの胸を信じられないほどの苦痛を伴いながら深く深く
「何だ? 信じられないって顔だな」
「え?」
「あいつだってお妃なんだから、別に驚くようなことじゃないんじゃねえか?」
全くもって彼の言う通りであった。
(……そうだ。何を考えているんだ僕は。これで良かったんじゃないか。彼女たちとの仲を深めてもらうために自分から逃げ出しておいて人並みに傷つくなんて、馬鹿じゃないのか?)
「……別に驚いた訳ではありません。お手付き後に初めてお会いしたので、少し驚いただけです」
「別に悲しくも何ともないと」
「当然です。政略結婚ですから」
「でも泣いてるぜ」
「え?」
彼が指摘するのと同時に、シアンの目からこぼれ落ちた涙の雫が、冷たい夜風にさらわれてハラハラと暗い川面に流星のように流れ落ちていった。
シアンが何も言えずにいると、白獅子の王子は呆れたようにはぁっと大きくため息をついてシアンから目を逸らした。
「人間なんかの一体どこが良いんだか。一度寝たら情が移るもんなのかね?」
別に体の関係を持ったから好きになった訳じゃない。ポロポロと止められない涙を流しながら、シアンもフイと白獅子の王子から視線を逸らした。
「シアン様は心の優しい繊細なお方なのですよ。あなた様はまだお若くていらっしゃるみたいですし、誰かを愛するという事を知らなくて当然でしょうがね」
「何でおっさんまで泣いてるんだよ」
「私はあなた様と違って、誰かを愛するという事をちゃんと理解しておりますから」
「いちいちうるせえな。それにオレはあなた様じゃねえ。レオって名前があんだよ」
白獅子のレオは不満げにそう言うと、再びシアンに視線を戻した。
「お前、歳はいくつなんだ?」
「……二十八です」
「けっ! 俺より二倍も長く生きてるくせに、たかだか自分の雄が別の雌とヤッたくらいでメソメソしやがって」
(十四歳だって?)
シアンは死にたくなるほど悲しいのも忘れて、思わずポカンとした表情でレオを見つめた。自分よりだいぶ歳下だろうとは思っていたが、まさかそこまで子供だったとは。
(十四歳にしては体格もいいし大人びて見える。さすがは百獣の王の獅子の獣人と言ったところか……)
「ところでおっさん、この舟は一体どこに向かってんだ?」
「レオ様、私はドッツと申しまして、歳は今年で四……」
「いや、別に歳とか聞いてないし」
「ちょっと! シアン様には聞いてたじゃありませんか!」
「おっさんになったらもはや歳とかどうでもいいだろ」
「どういう理屈ですかそれ? ていうかあなた、助けてもらっておいてお礼の一言も言えないんですか?」
それを聞いて、シアンは悲しみに浸って周りに気を配れていなかった自分を恥ずかしく思い、慌てて深く頭を下げた。
「ドッツさん、私たちのためにこのような危険を犯してくださり、なんとお礼申し上げていいか……」
「いえいえ! 頭を上げてください! シアン様にそのように言っていただく必要など……」
「おい、俺とこいつに対して言ってる事が違うんじゃねえか?」
「これが大人の対応ってやつなんですよ。それにそもそも私はシアン様をお助けするつもりだっただけで、あなたは全くの予定外なんですからね!」
ドッツはレオを軽く睨むと、表情をにこやかに整えてからシアンに向き直った。
「我々はこれから川を下って、人間の国と獣人国の境へ向かいます」
「境って、もしかして西の辺境にある亀裂の事ですか?」
「そうです。最近の若い人はあまり知らないかも知れませんが、王城の裏を流れるこの川はあの亀裂の底を流れる川に繋がっているんですよ」
シアンが獣人国への帰郷を考えた時に真っ先に削除した、崖を登って獣人国へと入るルート。そこまでの行き方は違えど、ドッツはその方法を使って国境を越えようと目論んでいたのだった。
「あの、西領では城壁の上から火の玉を発射していて、それが下の川に落ちていたように見えたんですが……」
「ああ、それは大砲ですね」
「大砲?」
「我々人間が使う武器の一つで、鉄の筒に火薬を込めて爆発させ、その勢いで鉄球を飛ばして攻撃するものです」
燃え盛る重い鉄球が川に落下するバッシャーン! という音を思い出して、シアンは思わず震え上がった。
「だ、大丈夫でしょうか? あんなのがもし舟に当たったりでもしたら……」
「木っ端微塵じゃね?」
にべもなくそう言うレオを、シアンは蒼白な顔で振り返った。
「レオ様はその、泳ぎは得意でいらっしゃいますか?」
「泳げるぜ。あんまり好きじゃないけど」
「そ、そうでしたか……」
「ていうか様付けで呼ぶのキモいからやめろ。レオって普通に呼べよ」
(ええええ~?)
「ライオンの獣人は泳ぎが苦手なものだとばかり思っていたが、レオは違うんだな」
早速遠慮なく口の聞き方を変えたドッツを軽く睨んでから、レオは舟底にごろりと横になった。
「親父みたいな古い世代の連中は固定観念に縛られてるけどな。同じ四足歩行の獣だって泳げる奴はいくらでもいるってのに、そもそも俺たちは獣人だぜ。人間の奴らが泳げるのに、俺たちが泳げないわけないだろ」
レオの斬新な言葉は、同じく古い考え方に縛られて泳げないと思い込んでいるシアンの心にグサリと突き刺さった。
「まあだからといって、鉄球に舟を沈められるのは勘弁だけどな。お前ら人間はよくもそんな危険な武器を作り出したもんだ」
「爪や牙のない我々には身を守るために必要なものだったんだ」
「それでどうするんだ? その大砲とやらの的にならないための作戦は考えてあるんだろうな?」
シアンもそれは非常に気になったため、思わずドッツの方に上半身を乗り出していた。
「もちろん。亀裂は何キロにも渡って続いてるんだ。西の兵士たちも端から端まで常に見張っている訳じゃない。特にこの川が最初に亀裂と合流する地点は、人間の国側が生き物が足を踏み入れられない毒ガスに満ちた地域になっている。そこから侵入されることはあり得ないから、見張りも置いていないはずだ。そこで舟を降りれば大砲で狙われる心配も無いだろう」
「そこの崖を登って獣人国に入ろうって算段だな?」
「まあそんなところだ」
双方の種族の国の間に横たわる切り立った巨大な亀裂を思い出し、シアンは心配そうにドッツを見た。
「カトンテール様が、ドッツさんが我々の脱獄幇助の罪を全て被るのだと仰っていました。という事は、ドッツさんも一緒に獣人国へいらっしゃるんですよね? あの崖を人間の力で登れるものなんでしょうか?」
「ご心配には及びません。人間はこういう時のための道具もちゃんと持っておりますので」
「へえ、そうなんですね」
ドッツの言葉に安心してほっと胸を撫で下ろしたシアンとは反対に、レオはきつい光を宿した瞳でドッツを見た。
「崖を登れたとして、その後お前はどうするんだ? このオレを拉致監禁するなんて、今はもうほとんど戦争状態ってことだろ? 人間がのこのこ獣人国にやって来て、無事で済むと思っているのか?」
「それはレオがちゃんと取りなさないと! 僕も頑張るけど、君は獣人連合国の頂点に立つ王族の獣人なんだから、まさか命の恩人のドッツさんを蔑ろにしたりするつもりはないだろう?」
今までずっと大人しく頼りなさげに見えたシアンが突然強い態度で言葉を発したため、レオとドッツは驚いて一瞬ポカンと口を開けた。
「シ、シアン様……」
「ドッツさんの事は僕が全力でお守りします。ですが猫の獣人は獅子の獣人より立場が低いので、彼が協力してくれた方が確実にドッツさんの身柄を保証できるんです」
「いや、別にオレだってそいつを放置するつもりは無かったけど……」
「本当だね? ちゃんと約束するんだぞ。男に二言は無いんだからな!」
厳しい口調で念を押されて、この時初めてレオはシアンが自分より二倍も大人の、しかも高貴な血筋の王族であることに思い至ったのであった。