目的地が亀裂のだいぶこちら寄りの端の方であった事もあり、シアンたちの乗る小舟は半日ほどで国境にたどり着く事ができた。
(すごいな。川を使えばこんなに早く移動できるんだ。しかもほとんど座ったままで)
「シアン様、お身体はしっかり休められましたか?」
ドッツに笑顔でそう聞かれて、ぼんやりと国境の岩壁を見上げていたシアンははっと我に返った。
「すみませんドッツさん! 昨日はいつの間にか眠ってしまっていて……」
「いやいや良かったです。慣れない舟の上では寝られないんじゃないかと心配していたんですよ」
「ドッツさんは夜通し舟を漕いで下さったんですよね。僕が見張りをしますから、その間に少し休んで……」
「いえ、休むのは壁をまずは超えてからにしましょう。私の事はご心配には及びません。前日非番でしたので、この計画のためにしっかりと睡眠は取ってありますから」
シアンはドッツの用意周到さに感嘆しつつも、青白くなっている彼の顔色を見て心配せずにはいられなかった。
(睡眠不足というのは借金みたいに後から返す事はできても、睡眠を貯金のように寝溜めする事はできないのだと聞いたことがある。事前にたくさん寝たからって、次の日丸一日起きているのが楽になるわけじゃないんだ。さっさと崖を登って、ドッツさんに休んでもらわなければ!)
しかし岩壁の高さはパッと見た感じで二十五から三十メートルほどはありそうで、そう簡単にさっさと登るのは難しそうであった。
「何だ? 壁の高さにビビってんのか?」
不安げな表情で岩壁を見上げるシアンの後ろでう~んと伸びをしながら、舟底から起き上がったレオが茶化すように話しかけてきた。
「逆に聞くけど、レオは怖くないの?」
「全然」
「本当に? 結構な高さだと思うんだけど」
「獅子の獣人の子供はこれくらいの高さから何度も突き落とされて成長するんだ。這い上がる事ができなければ生き残れない。こんな崖を登るくらい朝飯前だ」
「へえ~、すごいね」
心から感心したような眼差しで見つめられて、レオは少しばかり居心地悪そうに身じろぎした。
「別に普通だろ? オレたちは獣人だぜ? 道具が無けりゃ何にもできない人間どもとは違うだろ」
「そんな事ないよ。僕の家ではそこまで厳しくは躾けられなかった。だから正直この壁を登るのは怖いよ。この高さから落ちたらって思うと、登る前から震えが止まらないもの。でも君は何度も経験してて、慣れているから平気だって言う。それってとてもすごい事だと思うよ」
「シアン様、それ以上褒めたら獅子の国に嫁ぐ羽目になりかねませんよ」
獣人の国側の岩壁に舟を固定しながら、ドッツが冗談混じりの言葉を投げかけてきた。
「え? どうしてですか?」
「美人に褒められたら、うぶな若者はすぐに舞いあがっちまうもんです」
「何だと? ガキ扱いすんなって言ってんだろ? 誰がこんな中古品……」
勢いで酷い言葉を吐いてから、レオはしまったという表情でチラッとシアンを見たが、シアンは全く意に介する風もなくレオに向かってにこりと笑って見せた。
「大丈夫だよ。ちゃんと分かってるから。ドッツさんも人が悪いですね。僕みたいな人間の姿になった獣人を好き好んでもらってくれる獣人なんていないんですよ」
「いや、別にオレはそんなつもりじゃ……」
レオが口の中でモゴモゴと言った言葉は、川の水音にさらわれてシアンの耳に届く事は無かった。
「それよりドッツさんはどうやってここを登るんですか? 人間の爪ではとても壁に取り付くのは難しいと思うのですが……」
「ご安心下さい。この道具が私の爪代わりになります」
舟の固定を終えたドッツが自信ありげに取り出したのは、鉄製の
「この鉤を壁に引っ掛けて、ロープを使って登るんです」
「え、でもこの壁かなりの高さがありますけど、上まで投げて届きますかね?」
「本来はてっぺんに引っ掛ける道具なんですけど、この壁は高すぎるので丁度いい足場のある所に引っ掛けながら少しずつ登って行こうと思います」
ドッツがそう言って鉤を引っ掛けるのに適した足場を探していると、不意にレオが近付いてずいっと右手を差し出した。
「オレに貸してみろ」
「え?」
レオはドッツが答える前にいきなり鉤を奪い取ると、思いっきり振りかぶって上空へと投げ上げた。
(ええええ~?)
ヒュンッと風を切って勢いよく投げ上げられた鉄の鉤は、弧を描くようにロープを引っ張りながら三十メートル近い高さの崖の上にドサリと着地し、そのままズルズルと滑って岩か何かにガチンと引っかかった。
「ちまちま登ってたら一生上になんか辿り着かねえ。一発で決めるべきだろ」
「……レオ、肩の力すごいね」
「あ? 普通だろ?」
自分より背も年齢も低いのでうっかり子供扱いしていたが、今の腕力を見る限りシアンとドッツが二人がかりでかかっても恐らく勝ち目は無さそうであった。
「……あ、ありがとう」
「別におっさんのためにやったんじゃねえよ。さっさと家に帰りたかっただけだ」
「だけど鉤が本当にきちんと引っかかっているかどうか、ここからじゃよく見えないね。登ってる途中で外れたら大変だし……」
「だったらオレらが先に登って確かめればいいだろ」
「本当だ! レオ、賢いね」
「だから子供扱いすんなって!」
「じゃあレオが先に登って見てきてくれる?」
シアンの言葉にレオは不審げな表情で振り返った。
「お前は行かないのか?」
「できれば僕もロープで登れたらありがたいなって」
「けっ! 満足に壁も登れない弱っちい奴らばっかりだぜ」
本当はドッツが上手く登れなかった時に助けられるように危険なしんがりを引き受けたのだが、それはもちろんレオには教える必要のない事であった。
レオの手足の爪は人間のそれと見た目は同じであったが、強度はもちろんライオンの獣人に相応しい強さを誇っており、いとも容易くするすると巨大な壁を登って行った。彼の姿はてっぺんに着いて一度二人の視界から消えたものの、すぐにひょこっと顔を覗かせて右手の親指を立てて見せた。
「上手く引っかかっていたみたいですね」
「本当に信じられない身体能力だ。シアン様、先に行かれますか?」
「いえ、僕は最後に行かせて下さい。ちょっと荷物をまとめたいので……」
「分かりました。追っ手がいつかかるか分かりませんので急いでくださいね」
「大丈夫ですよ。レオのおかげでだいぶ時間短縮できましたし」
確かにそれもそうだ、とドッツは笑うと、ロープを二、三度引っ張って強度を確かめてから、慎重に壁に足をかけて登り始めた。
(さあ、レオにはああ言ったけど、時間はいくらあっても惜しい。僕もすぐに登り始めよう)
まだ乾き切っていない青い衣を腰にギュッと巻き付けると、シアンはドッツと一メートルほど距離を取る感覚で壁を登り始めた。二人同時にロープを使うのは危険なため、ロープは使わずに自分の爪だけを頼りに岩壁に張り付いていく。
(うん、レオほどではないかもしれないけど、これくらいなら僕にも何とかできそうだ。万が一ドッツさんが落ちてきても、支えられる自信はある。できればそうはならないで欲しいけど……)
猫はよく木に登っていて高い所が好きな動物である印象を受ける。確かに間違いではないのだが、それにしたって限度というものがある。外敵から身を守りやすく、比較的安全な高い場所を好む彼らにとっても、十メートル以上の高さは逆にストレスになる。ドッツの後に続いて壁を登りながら、シアンは出来るだけ下を見ないように気を付けていた。
「おい!」
突然レオが警告するような鋭い声を発し、シアンとドッツはその場ではっと身を固くした。
「川の上流から何か近付いて来るぞ!」