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第23話 そして冷たい川の中へ

 反射的に遥か下方の川を振り返ったシアンは、あまりの高さにヒュッと心臓が縮こまるのを感じた。


(怖っ!)


「下を見るんじゃねえ! さっさと登って来るんだ!」

「シアン様!」


 レオとドッツに怒鳴られ、シアンはすぐにパッと壁に向き直って一旦深呼吸した。


(はぁ、ク、クラクラする……)


「急げって!」


 シアンの横で、ズルズルとロープが岩に擦れる音が響いている。痺れを切らしたレオがドッツごとロープを上に引き上げているようだ。


(え、ちょ、マジですごい腕力だな!)


 思わず怖いのも忘れて感心していると、突然遠くの方から聞いたこともないような不思議な音が響いてきた。


 ドゥルルルルルルルッ!


(何だ? この不思議な重低音は……?)


「船です!」


 レオに引っ張り上げられたドッツが、上から上半身を覗かせながら悲鳴に近い声を上げた。


「王室御用達の機械式の船です!」

「何ですって?」

「我々が乗ってきた人力で動かす舟とは違って、燃料を使って自動で動かせる船は希少で王室の人間しか使用できないことになっているんですよ!」

「そんなことどうでもいいから早く登ってきやがれ! 要は追っ手だろうが!」


(確かに水路の方が陸路より早いし楽だけど、こんなにも早く追いつかれるなんて! 自動の船っていうのはそんなにもスピードが速いものなのか)


 シアンが再び登り始めようと壁の上に手を伸ばした時、突然上空からピーッ! という鋭い鳴き声が聞こえ、それはまるで突き刺さるようにはるか下方にいるシアンたちに向かって降り注いできた。


「今度はなん……」


 シアンが見上げるのと同時に、ビュンッと鋭い風切り音が彼のすぐ横を通り過ぎ、目下の川目掛けてまっしぐらに進んで行った。


(あれは!)


 獲物に向かって電光石火の如く上空から滑空する姿はまさに空の王者。巨大な翼を持つ彼らが人前に現れる事は稀で、同じ獣人のシアンやレオですらかつてその姿を拝んだ事は一度も無かった。


「鳥……鷹の獣人か!」


 レオの驚きを通り越して感動したような声が頭上から降ってきた。子供だからなどとは関係なく、シアンには彼の気持ちが痛いほどよく分かった。一応獣人連合国の一員であるにも関わらず、翼を持つ彼らは他の獣人と関わるのを基本的に嫌がり、交流することも互いに干渉し合うことも滅多に無かった。故に多くの獣人たちにとって彼らは謎に包まれた存在であり、一部では神の化身ではないかと信じている者もいるほどなのだ。


「どうしてこんな所に……?」

「シアン様、急いで!」


 ドッツに急かされて再び手を伸ばしかけたシアンの耳に、今度はガツン! と何かがぶつかり合う鈍い音が飛び込んできた。思わず振り返ると、四人の鷹の獣人が王室御用達の自動走行の船に体当たりを仕掛けている所だった。


(彼らは僕らに味方してくれているんだろうか……?)


 グラリと船が傾いた拍子に、一つの人影が船から投げ出されて真っ逆さまに川の流れに落ちて行った。


「あっ!」


 長い黒髪と青い衣の端がチラッと見えた辺りに、鷹の獣人たちが一斉に襲いかかる。浮かんできた所を攻撃するか、水に沈めて溺死させるつもりなのだろうか。シアンの瞳孔がスッとすぼまり、次の瞬間、彼の手は今さっきまで必死でしがみついていたはずの岩壁から何の躊躇もなく引き剥がされていた。


「おい!」

「シアン様!」


 崖の上から二人の仲間たちが叫んでいたが、耳元で轟々と風が鳴り響き、内臓がヒュンッと浮き上がるような感覚と同時に冷たい水の中に撃ち込まれ、シアンはもはや何が何だか分からなくなっていた。かろうじて心臓が止まらずに済んだのは、全身を駆け巡るアドレナリンと怒りの感情のおかげだったのかもしれない。盛大に跳ね上がった水飛沫を避けるように飛翔した鷹の獣人たちには見向きもせず、シアンは目を血走らせながら必死に手足を動かしていた。


(殿下!)


 高い所から落ちるのが怖いとか、泳ぐのが苦手だとか、水が氷のように冷たいだとか、そんな事はすっかり頭の中から消え去っていた。ただただ必死に目の前の水をかき分けて、一秒でも速く前に進もうと、ただそれだけのことしか考えられなかった。


「でん……」


 口を開けた途端に冷たい水が大量に入ってきて、吐き出す暇もなく口の中が川の水で溢れかえった。アドレナリンマックスでメンタル無敵状態でも、やはり泳ぎが上手くなるわけでは無かったようだ。ゴホゴホと咳き込んでいる時、誰かの力強い手に手首をぐっと掴まれた。


「でん……!」

「あなたは何度私を怒らせれば気が済むんだ!」


 氷のように冷たい川の中で怒鳴られて、シアンは思わずポカンとアルベルトの顔を見上げていた。目の下にくっきりとクマを作り、顔色は蒼白で濡れそぼった黒髪がぐちゃぐちゃになって顔に張り付いているにも関わらず、彼の美貌は少しも損なわれていないようにシアンの目には映っていた。


「殿下……」

「一度ならず二度までも、私に何の相談もせずに勝手に城を抜け出すなんて!」


 ドッツが固定した小舟に向かって泳ぎながらも、アルベルトはシアンの手首を万力のように指で締め付けて決して離そうとはしなかった。


「私を信じて待つ事はできなかったのか? あなたにとって私は、それほどまでに信頼するに値しない夫であったという事なのか?」

「いえ、決してそういうわけでは……」

「しかも泳ぎが苦手だと自分でも分かっているくせに川に飛び込むなんて! あなたは私を殺す気なのか? 一体私はいくつ心臓を持っていればあなたと一緒に居られるのだ?」


 アルベルトがこんなにも感情をむき出しにしてシアンに対して激昂したのは初めてであった。強い力で小舟の上に引っ張り上げられながら、シアンは身が縮むような、それでいて心が軽くくすぐられるような、怖いような嬉しいような感情で自分の体が満たされるのを感じていた。

 勢いよく引き上げられた拍子に前のめりにバランスを崩したシアンは、アルベルトを押し倒すように小舟の中に倒れ込んだ。慌てて体を離そうとしたが、固く手首を掴まれたままで上手く起き上がることができない。


「殿下、手を離して下さい! アレルギーが……」


 しかしアルベルトは固く目を瞑ってピクリとも動かない。契りを交わした日の惨状を思い出し、冷たい川の水に浸かって冷え切っているはずの全身からどっと冷たい汗が吹き出した。


「殿下!」


 バサリ、と巨大な翼が羽ばたく音がして、背後から広げた羽の形の黒い影がシアンとアルベルトに向かって落ちてきた。ハッとして振り返ると、翼の生えた人間のような見た目の鷹の獣人が一人、小舟に向かってゆっくりと近付いて来る所だった。シアンの瞳孔が再び鋭く収縮し、手首を掴まれたままの状態で、アルベルトを庇うように体を捻って鷹の獣人と対峙した。


「僕の夫に触るな」


 鷹の獣人は小舟の端に着地すると、感情の読み取れない灰色の目でシアンを凝視した。


「猫の王子よ、嫁ぎ先の人間の国で不当な扱いを受けて逃げて来たのでは無いのか?」

「違います」

「人間に恨みを持っているのではないのか?」

「そんな事はありません。個人的な事情があって出て来ただけです。この人には手を出さないで頂きたい」

「そやつが我々に害をなさないのであれば、こちらも手出しをするつもりなど無い」


 鷹の獣人はそう言いながら、シアンたちが下ってきた川の上流に視線をやった。


「しかしここにお前たちが長居すると、余計な争いを生む可能性がある。我々の手で迅速に移動してもらう事としよう」

「え、それは……」


 シアンが何か言う前に、別の鷹の獣人がひらりとシアンたちの背後に舞い降りた。アルベルトの指がシアンの手首を意地でも離さなかったため、二人の鷹の獣人はそれぞれシアンとアルベルトを一人ずつ抱えて、息をぴったり合わせて同時に小舟を蹴って大空へと舞い上がった。

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