兎の獣人国には姫君が多くて最有力候補だと聞いていたので、てっきりアルベルトは兎の獣人と結婚する事になるのだろうと思っていたのだが、予想に反して縁談の話はスムーズには進まなかった。
「何? 兎の姫君が人間に嫁ぐのを嫌がっているだと?」
再び晩餐の席で弟からの報告を聞いて、ルイス国王は不審げな表情で眉根を曇らせた。
「話は進んでいるのではなかったのか?」
「父親である兎の獣人の国王陛下は政略結婚に前向きなのですが、肝心の姫君たちが人間に嫁ぐのを躊躇しておられる状況でして……」
(そりゃあそうだろう。来てもらう側の私ですら、獣人の花嫁には些か抵抗があるというのに、あまり友好関係にあるとは言えない他種族の国にたった一人で嫁ぐ事になるのだ。しかも顔も見た事のない人間に。どう考えても躊躇するに決まっている)
「まあ確かに兎は怖がりな生き物だからな。しかしそれではどうするつもりなのだ?」
「次に候補に上がっているのが、猫の獣人国の姫君たちです。猫の獣人はかつて我々人間と特に親交の深かった種族の一つでして、現在でも他の種族に比べて人間に対して友好的な国民性を維持しております」
「猫か。わしはあまり猫は好かんのだがな」
食事を口に運びながら、ルイス国王は残念そうにため息をついた。
「アルベルト殿下はどう思われますか?」
「私は兎だろうが猫だろうがどっちでもいいのですが、兎の姫君と同じように猫の姫君も人間に嫁ぐのは嫌なんじゃないでしょうか?」
「確かにその可能性はありますが、殿下が猫の獣人でも問題無いと仰るなら、猫の獣人国とも話を進めさせていただきます」
「私は一向に構いません」
「リナルドよ、もう少し兎の姫君を説得する事はできんのか?」
未練がましく弟に食い下がる父親を尻目に、アルベルトは黙々と目の前の食事を口に運んでいった。心ここにあらずといった状態で反射的に肉や野菜を咀嚼しているだけで、せっかくのご馳走なのに全く味を感じなかった。
(政略結婚なのだから仕方がない。平和のための大切な役割なのだ。でも……)
自分の所に嫁ぎたくはないのだと、全力で嫌がられている。いくら冷静な大人であろうとしても、アルベルトとて一人の人間である。あからさまに拒絶されれば、当然自尊心が傷つけられる。
(私だって心から獣人との結婚に乗り気なわけではない。そして相手は私を完璧に嫌がっている。本当にこれで良いんだろうか?)
結婚とは、本当にこのような形を取っても成立するものなのだろうか?
(私に好きな人がいなくて幸いだったという所か。もし本当に心から愛する人がいたなら、きっとこのような状況は耐えられなかっただろう。だからせめて……)
せめて相手も、誰も他に想う相手のいない獣人であって欲しい。
(お互いに恋愛感情を抱いて結婚したいだなんて、そんな贅沢な事は今更言わない。せめて大人な関係が築ける相手、他に好きな人が居なくて、嫁いだ事を死ぬほど後悔して私のことを恨まないような、そんな獣人でさえあってくれればそれで良いから……)
人並みに妻から愛されたいなどという願望は、はなから持ち合わせたりなどするつもりは無いのだから。
◇
順調に話が進むと期待して失敗した兎の獣人国とは逆に、あまり期待していなかった猫の獣人国の方が予想を裏切って、アルベルトが気がついた時にはとんとん拍子に縁談の話が進んでいた。
「えっ! もうお相手が決まったのですか?」
その日、突然自室に押しかけてきたリナルドに興奮気味に縁談相手が決まった事を告げられて、アルベルトは驚きのあまり手に持っていた分厚い本を思わず足の上に落としてしまった。
(痛った!)
「……っその、猫の獣人国も兎の獣人国の時と同じで、国王陛下は割と縁談に意欲的だったと記憶しているのですが、姫君たちの反応はイマイチだったのでは?」
「そう、まさにその通りで、姫君たちは全滅だったのですが、お一人だけ快く引き受けて下さった方がいらっしゃったのです!」
リナルドは嬉しそうにそうまくしたてると、胸ポケットから一枚の写真を取り出した。
「この方なんですよ!」
机に置かれた写真に映る猫の獣人の姿に、アルベルトの目は知らず知らずのうちに吸い寄せられていた。
「本来獣人たちは我々の使う道具に対する警戒心が強く、カメラを向けられるのをかなり嫌がるのですが、シアン殿下はむしろ積極的に写真を撮らせて下さいました。アルベルト殿下にご自身の姿を見て欲しかったのだそうです」
「シアン殿下?」
「彼の名前ですよ。猫の獣人国の第二王子殿下でいらっしゃいます」
小さな四角い紙の枠の中で、その猫の獣人の王子ははにかんだように首を傾げて小さく微笑んでいた。癖のあるショートボブの銀髪に縁取られた細面の顔の中で、優しい光を湛えたエメラルド色の瞳が印象的であった。すっと通った鼻筋の下にちょこんと収まった薄い唇は品が良く、彼は確かに中性的な美貌の持ち主ではあったが、それはどこからどう見ても美しい“男”であって、どこからどう見ても女には見えなかった。
「……綺麗だ」
男だとか女だとか、人間か獣人なのか、この瞬間それらの垣根を全て飛び越えて、頭の中に真っ先に浮かんだ言葉がアルベルトの口を継いで溢れるように外に出てきた。
「見事なロシアンブルーですね。お気に召されましたか?」
「そうですね」
「それは良かったです。シアン殿下はご自分の容姿をとても気にしておられました。男の自分の容姿が果たしてアルベルト殿下のお眼鏡に適うのかどうかと」
アルベルトは不審げな表情でリナルドを見た。
「この方は私の容姿を知っているのですか? 写真を撮った覚えは無いのですが……」
「もちろんご存知ありませんよ。獣人は基本的に自分の目で見た生身の生物しか信用せず写真は無意味なので、アルベルト殿下の写真は獣人国には持ち込んでおりません」
「こちらの容姿は気にしないのに、自分の容姿が私の気にいるかという事は気にするのですか?」
「そういえばそうですね。シアン殿下はアルベルト殿下がどんな容姿でも構わないと思って下さっているという事でしょう。まあ私が散々褒めちぎってはおきましたけどね」
はははは、と笑うリナルドをよそに、アルベルトはもう一度写真の中の猫の獣人をじっと見つめた。
(そうだ、これは平和のための政略結婚で、目的はハーフの子供を作る事だ)
獣人と人間が番えば、間違いなく人間の自分が相手の獣人を孕ませる事になる。そこで問題になるのが、子供を作るための最初の義務をきちんと果たせるかということである。
(このシアンという猫の獣人は、我々の結婚の意味をちゃんと理解しているんだ。私が彼を抱く事ができなければ話にならない。それで自分の容姿でも大丈夫かと気にかけてくれたのだ。向こうが私の容姿を気にしなかったのは、彼はどんな相手でもただ受け入れればいいだけだからという事なんだろう)
この猫の獣人の王子が政略結婚についてどのような感情を抱いているのかは分からない。ただ一つだけ明らかなのは、相手も自分と同じように平和な世界の構築を強く願っているという事であった。それこそ顔も知らない相手にその身を一生捧げる道を選べるほどに。
「……猫の姫君が全員嫌がったから、彼が犠牲になったという事ですかね?」
「そういう側面も無いとは言い切れません。しかしシアン殿下は私がお話ししたアルベルト殿下の平和に対する考え方にいたく感銘を受けておられました。そのような思想を持つ人物の所へなら、自分は喜んで嫁いで行けると。お写真を見れば、彼が決してこの婚姻に関して無理矢理強制された訳では無いとお分かりいただけると思うのですが……」
(強制では無い。これは崇高な理念に基づいた義務感だろう)
冷静な自分が頭の中でそう言っている。彼はただ自分で納得して犠牲になっただけだ。しかし写真の中で微笑んでいるエメラルド色の瞳に宿る光は深くて優しく、アルベルトはまるで自分の全てを受け入れてもらえているような錯覚を覚えずにはいられなかった。
(あなたの、妻になりたいです)
その目がそう自分に語りかけているような気がして、アルベルトは不意に泡立つような高揚感を覚えた。
その時になって初めて、アルベルトは無意識に自分がその言葉を望んでいた事に気が付いたのであった。