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第26話 回想: 童貞の苦悩

 猫の獣人国から花嫁がやってくる日、アルベルトは朝からソワソワしながら自身の寝室内をウロウロと歩き回っていた。


(婚礼衣装の正確な採寸を行うためとはいえ、彼が到着してすぐに契りを交わせだなんて、叔父上も性急すぎるだろ!)


 彼は数日前、実際にそうリナルドに訴えたのだが、叔父はこともなげに笑顔でアルベルトの必死の抗議を一蹴した。


「別にいきなり最後まで致せと言っているわけでは無いのですよ。私も文献で読んだだけなのですが、異種間での交配の際、容姿の変化は最初の粘膜接触ですぐに起こるのだそうです」

「さ、最初の粘膜……何ですって?」

「まあ要するに、口付けだけで問題ないということですよ」


 口付けだけで問題ないだって!?


「……お、叔父上は、誰かと口付けをされたことはあるんですか?」

「もちろんございますよ。もう随分と昔の話になりますけど」


 それは少し意外だった。アルベルトの表情から彼の心の内を読み取ったリナルドは微かに口角を上げた。


「意外に思われましたか?」

「あ、いや、その……」


 口付けをしたことがある、というのが意外だったわけではなかった。むしろ五十歳手前に差し掛かる現在でも、実年齢よりずっと若々しく美しい容姿を保っている物腰の柔らかいこの叔父が未経験だと言う方が説得力に欠けた。アルベルトが意外に思ったのは、そのような相手が居たにも関わらず叔父がその人と添い遂げていないという現在の状況であった。


(でもきっとそれは聞かない方がいいのだろうな……)


 政治的な理由からか、それとも単にすれ違いが原因か、いずれにせよ叔父とその人物は上手くいかなかったのだ。


(まあただの遊びだったのかも知れないし。それはそれで聞きたくない話だな)


「……私はその、そういった経験は生まれて初めてのことでして……」


 これ以上この話題を深く掘り下げない事に決めたアルベルトは、話題をすり替える、というより本筋に戻す事にした。


「他所の方々からすれば意外に思えることかも知れませんが、貴方様をよく知る私からすれば特に驚くようなことではありませんね。初体験が遅いということは決して恥ずべきことではありません。むしろ未来の奥様にとっては喜ばしい事でしょう」

「そうでしょうか?」

「そうですとも。相手の全てを独占できるというのは心の安寧に繋がります。嫉妬心というものは心身共に削って疲弊させますからね」


 ただし、とリナルドはそこで初めて表情を引き締めた。


「初めてと仰るのは肉体関係を誰とも持った事が無いという事で間違いありませんよね? まさか口付けは未経験でもそれ以上は経験済みなんて事は……」

「ありません! 誓って一度も誰かと寝たことなんて……」


 思わず上擦った声で童貞宣言をしてしまい、アルベルトの頬にさっと赤みが差した。


「やはりそうですよね。それはつまり、ご自身をどこに挿れてどの様に動けばいいのか、全くご存じ無いという事ですよね?」


(表現が生々しい!)


 もういい大人なのにこのような会話でいちいち顔が赤くなってしまう自分が恥ずかしくて情けなく、アルベルトは無意識にモジモジと下を向いていた。


「そういった行為に関して詳しく記載してある書物を幾つかご用意しますので、とりあえずシアン殿下がいらっしゃるまでそれで勉強しておいて下さい」

「そんな文献があるのですか?」

「当然です。我が城には人類の叡智を集結したこの国で最大の蔵書数を誇る書庫がございます。特に獣人の男性を相手にするのですから、それなりの知識を蓄えるのに越した事はありません」

「と言いますと?」

「初日は口付けだけでいいと申し上げましたが、当然結婚生活が始まればそういうわけにもいきません。シアン殿下も子作りをする覚悟を持っていらっしゃるわけですし」


 リナルドはアルベルトにぐっと顔を近づけると、人差し指をビシッと立てて見せた。


「ド下手くそだとシアン殿下に思われたら、その後の夫婦生活が難航する恐れがあります。最初が痛みを伴うのは仕方のない事ですが、それでもアルベルト殿下の手管によって、受ける側の負担は大分変わってくる事でしょう。一度の行為で妊娠する確率は限りなく低いと思ってください。そのためにはどうすればいいか、もうお分かりですね? 理想はこれ、毎晩奥様にねだられるくらいにお上手になる事です! それこそ夫冥利に尽きるのではないでしょうか?」



 リナルドにドサリと渡された文献は科学的な内容の物から感情寄りの卑猥な物まで様々で、アルベルトは毎晩それらを読み耽る事によって、真っ白だった自身の大人のページに徐々に知識を蓄えていった。


(ふむ、性的興奮を引き起こすのには様々な方法があるのか。とはいえ全ての方法が自分の妻に当てはまる訳では無いのだな。彼は一体どのような趣向の持ち主なんだろうか……)


 彼がシアンについて知っているのは、汚れのないエメラルドの瞳を持ち、他の誰もが嫌がったアルベルトへの輿入れを自ら引き受けてくれた、平和な世界の構築を願う少し歳上の優しい猫の獣人男性だという事ぐらいであった。


(あんな綺麗な顔と心の持ち主だ、あまり奇抜な行為は似合わない気がする。どちらかというと正面から抱き合って、優しく愛を注ぐようなやり方が相応しい気がするな。いやでも清楚に見える人物が実は性には奔放で、激しい行為を好む場合もあるとこの文献には書いてあったぞ。一見嫌われそうな痛みを伴う愛撫を喜ぶ相手もいるらしい。本当なのか?)


 枕元に本を放り投げて、アルベルトはドサリと寝台に仰向けに倒れ込んだ。思っていた以上の情報量に頭がパンクしそうであった。


(何が正解か分からない以上、全ての知識を叩き込むしかない。後は実戦で相手の反応を見ながら試すのみだ。ああでもまだ一度も経験が無いというのに、無駄かも知れない知識ばかりがどんどん貯まって頭でっかちになっているんじゃないだろうか? この状況は我ながら激しく恥ずかしい気がする)


 アルベルトは寝転がったままぐっと腕を伸ばすと、寝台横のテーブルの上にお守りのように置いてあったシアンの写真を手に取った。


(……何度見ても綺麗だな)


 指先で触れるとヒヤリと冷たい無機質な彼は、直接触れる事の叶わない神のような神々しさを纏っており、枕元に投げ出されている卑猥な内容の書物とは全くもって別次元の存在のように思えてならなかった。


(触れたら壊れてしまいそうだ。本当に私が触れても良いのだろうか?)


 一体この美しい生き物には、どのように触れるのが正しいのだろうか?



 写真で見たシアンと実際に対面した彼は、アルベルトの想像を遥かに超えるほど異なっていた。


「お初にお目にかかります。猫の獣人国第二王子、シアンでございます」


 写真では分からなかった。シアンはすらりと背が高く、女性のように華奢では無いものの、銀色の毛皮の下の体は細身である事が窺えた。高すぎず低すぎない声は落ち着いていて耳に心地良く、言葉遣いの端々から彼の謙虚な人柄が滲み出ている。しかし一番予想外だったのはその表情だった。優しい笑顔で固く固定されていた写真とは異なり、生身の彼は落ち着いている割に表情が豊かだった。初めて見る人間の道具に目を輝かせたかと思えば、緊張で顔を強張らせ、次の瞬間には恥じらいに頬を赤く染めている。コロコロと表情を変えるその生々しさが、アルベルト中に眠っていたある種の感情を呼び覚ました。


「……触れてもいいだろうか?」


 神々しい写真の中の彼からは感じ取れなかった、凄まじいほどの色気。軽く潤んだエメラルドの瞳が、微かに濡れた唇が、毛皮の隙間からチラリと見える白い首筋が、自分に触れろとアルベルトを誘惑する。


「は、はい……」


 震えていても、それが緊張から来るものであって、決して自分を拒絶しているわけではないとすぐに分かった。彼の潤んだ緑色の瞳がそう語っていた。その事実はアルベルトを高揚させ、同時に体の奥から激しく欲望が湧き上がるのを助長した。毛皮を落とした後、口付けより先に進む必要はまるで無かったが、アルベルトは生まれて初めて自分の体の奥底に眠る抑えられない欲というものの存在を感じていた。


「もしあなたが良ければ」

「……はい」


 言質げんちは取った。言葉と態度の両方で、シアンはアルベルトを受け入れると表明したのだ。あれこれ詰め込んでいた性技のことなど全て頭から吹っ飛び、本能のままに彼はシアンの上に乗り上がった。

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