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第28話 回想: 私より頼りになると言うのか?

 シアンが西の辺境伯マルセルの倉庫で確保され、王都に送還されたという知らせを受けて、まずはホッと胸を撫で下ろしたアルベルトだったが、すぐにもっと別の黒くてモヤモヤとした感情に苛まれることとなった。


「逃げ出した猫の獣人の妃が捕まったそうだぞ!」

「ああ、あの例のアレルギーの?」

「そうそう。西から故郷に逃げ帰る算段だったらしい」

「何で逃げ出したりしたんだろうな?」

「そりゃやましい事があるからに決まってるだろ? 噂じゃ獣人と戦争になりそうだって話だぜ?」

「兎の獣人のお妃もいたはずだが、そっちは逃げなかったのか?」

「そっちはアレルギーの心配も無いし、ワンチャン色仕掛けもいけると思ったんじゃないか?」

「確かに。子供を産むしか価値が無いのにそれができないんじゃ、お払い箱みたいなもんだしな」

「しかも実は、最初からアレルギーの事を獣人は知っていたらしいって噂も流れてるみたいなんだ」

「嘘だろ? あんな純粋無垢そうな顔して、腹ん中では最初の色仕掛けで殿下を文字通り昇天させるつもりだったって……」


 ボコッ! と鈍い音がして、シアンの悪口を言っていた兵士が勢いよく地面に転がった。


「殿下!」


 兵士の腹を殴った拍子に鎧に当たって拳が切れたが、アルベルトは構わず血走った目で再び拳を振り上げた。


「も、申し訳ありません! こいつにはきつく言っておきますから、どうかその辺で勘弁してやって下さい。殿下のお手も酷いことに……!」


(……きっと何か理由があったのだ)


 出会って約二ヶ月間、毎日同じ部屋で寝起きして、彼の人柄についてアルベルトは割と正確に理解しているつもりだった。


(繊細で優しくて自己犠牲的。私に対しての情も感じられる。初めから私を害する目的で嫁いで来たとはとても思えない。おそらくアレルギーの件はシアンの預かり知らない所で勝手に計画された事なのだろう)


 それならばなぜ、彼はお城から逃げ出したりしたのだろうか?


(……故郷の家族の安否が気になったとか?)


 何か、アルベルトの知らない伝達手段を使って情報を手に入れて、それで居ても立っても居られなくなったとか?


(それなら私に一言言えばいいものを。どうして何の相談も無く……?)


 疑心は一度芽生えると、まるでカビの根のように深く心の奥まで入り込み、そこから感情を腐らせていく。彼は綺麗な心の持ち主だと、決して意図的に夫を害する事などあり得ないと頭では分かっていても、腐った部分から感染はどんどん広がって心全体を包み込んでしまう。こうなるともう理性より先に感情が走ってしまい、王都に送還されて地下牢に囚われたシアンを前にした時、アルベルトは思わず自分でも言うつもりのなかった言葉を口走ってしまった。


「あなたは知らないふりをしていたけれど、本当はそれで自分の身が危うくなったから逃げ出したのではないか?」


「あなたも、始めから私と一生添い遂げるつもりなど無かったということなのか?」


 呆れた。シアンがそんな獣人では無いという事は自分が一番よく知っているはずなのに。違うと彼に否定させて、自分が安心したいがばかりにこのように無情な質問を投げかけている。今ここで何を弁明したところで、嘘くさい言い逃れのようにしか聞こえない事は分かりきっているのに。先ほど切れた拳からの出血がなかなか止まらずに地面に黒いシミを作っていたが、そんな事は全くと言っていいほど気にならなかった。それよりも妄想上のカビに侵された心臓の方がより激しく、ジクジクと痛むようであった。



 シアンが地下牢に囚われて三日目の早朝、アルベルトはまだ真っ暗な寒い部屋の中でゆっくりと目を覚ました。シアンが居なくなってから見つかるまでほとんど眠れなかったせいで、シアンに会ったその日は気絶するように寝台に倒れ込んで何時間も眠った。しかし徹夜の疲労は何日か引きずる上、精神的な疲労もあってか、三日経った今でもアルベルトはまるで鬱の患者のように体がだるく、睡眠も不安定であった。


(今何時だ? 冬は日が短いから、真っ暗でも意外と活動時間帯だったりするものだが……)


 枕元の時計を掴んでじっと覗き込み、今は午前五時前である事が分かった。そのままもう一度自分の体温で温まった生温い布団の中に戻る事もできたのだが、ふと気になる事があってアルベルトは窓の外に目を凝らした。


(倉庫に明かりがついていない……?)


 アルベルトたちの部屋の清掃担当であるドッツは、城全体の清掃担当者を統括する立場にあり、倉庫の鍵を持つ彼はこの時間帯には必ず起きて倉庫を解放しているはずであった。他の清掃員たちが起きてくるのはもう少し後になってからなのだが、真面目な彼はいつも率先して早起きをすることによって他の者たちに対して示しをつけるようにしていた。


(まあドッツも人間だ。たまには時間がズレる事もあるんだろう)


 しかし、どうにも何かが引っ掛かる。寝台の上に上半身を起こしながら、まだぼんやりとする頭の中で、アルベルトは昨日パスカルに頼んでシアンにかけてやった彼の毛皮を思い浮かべた。


(罪人にあまり贅沢をさせる事は禁止されているが、あれは元々彼の毛皮だったのだから特に問題は無いだろう)


 月の光のように神秘的で美しい彼の銀色の毛皮。捨てるにはあまりにも勿体なく、こっそりマントに仕立ててアルベルトが取っておいたのだ。


(こんなにも月の光が似合う生き物が他にいるだろうか……)


 ボールルームの外、静かな夜の屋外で、月の光を浴びながら流れるような仕草で膝をつき顎を上げたシアンの姿を思い出し、アルベルトはほうっとため息をついた。


(あの時は一緒に踊るどころか、彼を気にかけてやることすらできなかった。ドッツに連れ出されなければ、シアンはボールルーム内で気まずい思いをしていたことだろう)


 罪悪感で胸がチリッと痛んだ。一応寝台で体を休めて睡眠も取れたことによって、アルベルトはようやくいつものように落ち着いて感情を制御できる自分に戻りつつあった。


(こないだはつい感情のままに彼に冷たく当たってしまった。あれではまるで母親の愛を確かめるために駆け引きをする子供みたいだ。恥ずかしいことこの上ない。そんな夫では愛想を尽かされてまた……)


 また逃げられる? 自分よりも頼りになりそうな、大人な人物を頼って?

 ドッツに居心地の悪いボールルームから外へと連れ出してもらっていたシアンを思い出し、アルベルトの胸が不意に嫌な予感にざわついた。


(父上はシアンを始末すると仰っていたが、もちろん私が全力で阻止するつもりだった。だが……)


 もしシアンがそれを知ったら、一体どう思うだろう? アルベルトが助けてくれるものと信じられるだろうか?


(……ドッツは前から妙にシアンに対して好意的だった。まさか彼の事が好きなのか?)


 アルベルトがその考えに思い至ったのはほんの偶然の出来事であった。だが、自分の雌を独占したい雄の本能が、鋭い直感をその時彼に与えた可能性は十分にあった。


(まさかドッツの奴、シアンを連れて逃げたのではないだろうな?)


 寝巻きに着替える気力も無く泥のように眠っていたのが幸いし、アルベルトは前日着ていた衣服の上にさっと青い上着を羽織ると、すぐに走ってドッツの部屋を見に行った。部屋がもぬけの空である事を確認すると、すぐにその足で地下牢へと向かう。


(寝台で眠ったような形跡が無かった上、倉庫にも行っていないとなると、だいぶ前から城にはもう居なかった可能性が高い)


 ドクン、ドクンと心臓が大きく脈打ち、冷や汗がつうっとこめかみを伝った。


(まさか……)


 シアンの思惑とは外れて、アルベルトはすぐに牢屋の中が空である事に気がついた。藁束の上にこんもりと盛られた銀色の毛皮では、聡明な彼の夫の目を誤魔化す事はできなかったのである。

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