(やられた! やはりドッツの奴……!)
一瞬頭に血が上りかけたが、シアンに逃げられたのはこれで二度目なので、一回目の時よりもアルベルトは冷静に自分の置かれた状況を分析する心の余裕を持ち合わせていた。睡眠が十分に取れた後で本当に良かった。
(落ち着け。私が騒げばすぐに看守や兵士たちが飛んで来る。これが父上の耳に入れば今度こそシアンは弁明の機会も与えられる事なくその場で殺されるだろう。父上が差し向けた追っ手に彼らを捕らえさせるわけにはいかない!)
かと言って、自分の周りにルイス国王の息のかかっていない兵士など果たしているのだろうか?
(いや、正直誰も信用ならない。彼らは王家の人間である私や父上を守るのが仕事だ。私を守るためだとか言ってシアンの事は躊躇なく始末するに違いない。それが私の指示と異なる命令違反だったとしても、罰を受ける覚悟はありますとか平気で言いそうだ)
シアンと生きて再会する道はただ一つ、自分がこの手で捕まえるしかない。
(この国では彼らの居場所など無いのだから、間違いなく再び西へ逃げたに違いない。しかしシアンが一度逃げ出してから、城門の警備は以前より厳しくなった。例え夜でも二人がそこから逃げ出せたとは到底思えない)
地下牢から早足で自室に戻りながら、アルベルトは脳みそを出来得る限りの最大スピードでフル回転させていた。
(考えろ! 二人は一体どうやって抜け出した? 一体何を使って?)
必死で頭を絞りながらも、アルベルトは寝台横の机の上に置いてある錠剤の瓶を忘れないように取り上げ、袋に入れてしっかりと腰に縛り付けた。アルベルトはジャック医師にこの薬を貰ってからというもの、欠かす事なく舌下治療を毎日続けていた。疲弊し切っていたこの数日の間も、風呂や睡眠は忘れても治療のことだけは決して忘れなかった。これからしばらくここには戻って来られないかもしれないので、治療を途切れさせないためには薬を肌身離さず身につけておかなければならない。
(シアン一人ならともかく、ドッツが一緒であるというのが厄介だ。奴はこの城を知り尽くした清掃員で、我々ですら知らない秘密の通路を知っているのかも知れない)
いずれにせよもうそろそろ使用人たちが起き始め、城が目覚める時間となる。刻限は刻一刻と迫っているのだ。自室にいても埒が明かないため、アルベルトは部屋を出て廊下を早足で歩き始めた。
(どうする? シアンとドッツにはどんどん引き離されていっているし、使用人が起き出せば私が自由に動けなくなる。考えろ、考えるんだ!)
ザリッ、と聞き慣れない音が微かに聞こえて、アルベルトはその場でピタリと立ち止まった。
(……何だ、今の音は?)
再び同じ音が聞こえる事は無かったが、アルベルトは自分が立っている場所の目の前にある扉をじっと見つめた。
(ここは確か、カトンテールの部屋だ)
こんな朝っぱらから一体何をやっているというのか? 彼女の部屋は施錠されていたが、一応夫であるアルベルトは彼女の部屋の鍵をちゃんと持っていた。急いで自分の部屋へと引き返し、鍵を持って再び戻ってきたアルベルトは、ノックもせずにいきなり鍵を開けてカトンテールの部屋の扉を押し開けた。
(あっ!)
すんでのところで二人とも声を出さずに済んだのはまさに奇跡であった。
「で、殿下、なぜこちらに……?」
カトンテールが口を開くのと同時に、アルベルトは慌てて部屋の扉をバタンと閉めた。
「あ、あの、その、暖炉が急に爆発して……」
どう考えても嘘だ。そんな恐ろしい事が起こったなら、城中に轟音が響き渡って皆んなが駆けつけているはずだし、カトンテールが無事で済んでいるはずがない。そもそも普通暖炉が爆発したら、彼女自身が積極的に助けを呼ぶのではないか? 軟禁されているとはいえ、呼び鈴を鳴らして使用人を呼ぶ事はできるのだから。
暖炉の中を一目見たアルベルトは、続けて見たカトンテールの汚れた手によって稲妻のように全ての回路が頭の中でカチリと繋がるのを感じた。
(兎の穴掘りだ!)
軟禁されているはずの彼女が協力者だとは全くもって考えてもみなかったが、まさか暖炉の中の土の地面を掘って部屋から抜け出していたとは。なるべく音を立てないように穴を埋めていた彼女だったが、恐らく一瞬気が抜けた時に立ててしまった土をすくう音をアルベルトが聞きつけたのだろう。いや、音を聞いたのが他の人間なら、そんな些細な音などきっと気に留める事は無かったはずだ。少しの手がかりも逃すまいと神経を研ぎ澄ましていたアルベルトだったからこそ、彼女が立てたほんのわずかな音の違和感に反応したのだ。
「……シアンはどこだ?」
カトンテールは蒼白な表情でビクリとその場で小さく跳ねたが、アルベルトは数歩で彼女に一気に詰め寄ると、低い声で脅すようにもう一度話しかけた。
「お前が手引きして彼を逃したのは分かってるんだ」
「わ、わ、私は……」
「早く言え。お前のことは黙っておいてやるから。早くしないと侍女が朝食を運んで来るまでに部屋を掃除できないぞ」
「し、し、知りません!」
カトンテールはガタガタ震えながらも、強い意志の宿った目でアルベルトを見返してきた。
「わ、私が手引きした証拠がおありですか?」
「この部屋の惨状を見ればわかる。穴を掘ってここから抜け出してシアンの逃亡を助けたんだろう?」
「で、ですから暖炉が爆発したと……」
「私がすぐに兵士を呼べば、誰がお前の証言を信じると思う? それにじきにシアンが逃げ出したことも明らかになる。そうなれば父上が追っ手を仕向ける事になる。今度ばかりは見つかった瞬間に彼は射殺されるだろう」
「で、でも、無事逃げ切れれば……」
「我々人間の武器や道具を甘く見てもらっては困る。お前が想像するより遥かに速く移動できるし、遥か遠くの獲物を仕留める事も可能だ。生け捕りにするより始末する方が容易なのだ」
アルベルトはじっとカトンテールの茶色い瞳を覗き込んだ。
「私が行けばシアンを助けられる。それには今、まさにこの瞬間しかチャンスが無いのだ。頼むから教えてくれ。シアンはどうやって西へ逃げたのだ?」
カトンテールにより近付くため膝をついた拍子に、腰に下げていた袋が椅子に当たってガチャンとガラス瓶がぶつかる音がした。アルベルトはちっと舌打ちすると、袋から錠剤の入った瓶を取り出して割れていないか確かめ、再び袋に戻してしっかりと紐で口を閉じた。
「……お城の後ろに流れている川が、西の亀裂を流れる川と繋がっています」
「え?」
急にカトンテールが素直になって情報を吐き出したので、アルベルトは不意打ちを食らったようにポカンとした表情で彼女を見た。彼女はアルベルトの腰の袋に落としていた視線を上げると、真っ直ぐに彼を見てきっぱりと言い放った。
「シアン様は舟を使って、川を下って行かれました」
なぜ急にカトンテールが話す気になったのかアルベルトにはさっぱり分からなかったが、今それを考えている暇は無かった。
「ありがとう」
最後に小さくそう呟くと、アルベルトはさっと踵を返して部屋を飛び出し、きちんと鍵をかけてから早足に廊下を去って行った。視線だけでアルベルトの後ろ姿を見送っていたカトンテールは、部屋の扉が閉まるとすぐに立ち上がって先ほどまでの作業の続きを始めた。彼女が一糸纏わぬ裸姿である事にアルベルトが何も言及しなかった事に、内心ホッと安堵のため息をつきながら。