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第30話 獅子の国

 むっとすえたような匂いが鼻をつき、アルベルトは暗闇の中でぼんやりと意識を取り戻した。


(……あれ、私は一体……)


 頬に冷たい岩肌と砂粒のような感触があり、自分が横向きに地面に倒れている事が分かった。身につけている衣服が川の水を含んで冷たく、体は凍えるように寒いのに、目元だけがかっと火照ったように熱くてむず痒い。ゆっくりと目を開けると、薄闇の向こうに木の柵のような物が見え、さらにその向こうで見覚えのある青い布が動いているのが目に飛び込んできた。


「シア……!」


 反射的に叫ぼうとしたが、酷い風邪を引いた時のように掠れた声しか出てこなかった。思わずゴホゴホッと咳き込むと、青い衣を身につけた背の高い銀髪の青年がはっとこちらを振り返った。


「殿下!」


 シアンは転がるようにアルベルトに向かって駆け寄ると、勢いよくぶつかるように木の柵を掴んでこちらを覗き込んだ。


「気が付いたんですね!」

「シア……」

「ああ、お顔が酷い事に。私が触れてしまったばっかりに……」


 シアンは鼻の頭を赤くして、今にも泣き出しそうにエメラルドの瞳を潤ませている。まだモヤがかかったようにいまいちハッキリしない頭の中で、アルベルトは少し前の自身の記憶を手繰り寄せた。


(……違うな。シアンが私に触れたのではなくて、私がシアンを掴んだのだ。彼が崖から川に飛び込んできたから、それで……)


 どうしてこの美しい人は、何でもかんでもいつも自分のせいにして苦しんでいるんだろう? 触れればこうなる事を分かっていて触れたのはアルベルト自身であるというのに。彼の夫が猫アレルギーである事も、子供をすぐに作れない事も、全て彼の落ち度でも過失でも何でも無いというのに、なぜかこの人はいつも自分が悪いのだと必要以上に自分のことを責め立てている。


「殿下、寒くはありませんか? 寒いに決まっていますよね。あ、そうだ!」


 シアンはおもむろに青い衣を脱ぐと、木の柵の隙間からアルベルトより少し離れた場所に差し入れた。


「ドッツさん、あなたの衣を殿下にかけて下さいませんか? 僕の衣をドッツさんにお貸ししますので。殿下はアレルギーがあって僕の着ていた物は着られないんです。あ、僕の衣はさっきレオが乾かしてくれたんでちゃんと乾いてますから」

「そんな、私は大丈夫ですから。その衣はシアン様がお召しになって下さい」

「でも寒いですし……」

「大丈夫ですよ。その青い衣は殿下とお揃いなのでしょう? それを他人に渡すなって殿下が目で訴えておられます」


 半分冗談のようにそう言いながら、アルベルトの横に座っていた人物がのっそりと立ち上がると、着ていた上着をアルベルトの肩から腹に向かってふわりとかけてくれた。


「……ドッツ」

「お叱りは後でいくらでも受けます故、とりあえず今は堪えては頂けませんでしょうか? あまり我々にとって好ましいとは言えない状況でして、人間同士で争う事態は今は避けたく……」


(面の皮の厚い男だな。人の妻を勝手に連れ出しておいて、一体どの口が……)


 言いたいことは山ほどあったが、人間である自分とドッツだけが木の柵の中に閉じ込められているこの状況が全てを物語っており、アルベルトもひとまず溜飲を下げるしかなかった。シアンとドッツが見守る中、アルベルトはザラつく岩の地面に手をついてゆっくりと上半身を起こした。


(とりあえず、ここはどこだ?)


 動き回るのに支障が出る程ではなかったが、天井はさほど高くはなく、空間としてもそこまで広くはない。全体的に薄暗いのは照明器具が全く無いせいで、壁に開いた小さな窓のような穴から差し込む太陽の光のおかげでかろうじて辺りは見渡せるものの、恐らく夜になれば辺り一面漆黒の闇に包まれる事だろう。


(岩に掘られた洞穴というか、まるで大型の野生動物の住処のようだ)


 岩壁には扉の無い出入り口の様な穴が二箇所空いており、別の部屋か外界に繋がっていそうであったが、残念な事に木の柵の中に囚われているアルベルトとドッツは現時点でそこから逃げ出せる状態ではなかった。


「シアン様は彼らとは親交がおありなのですか?」

「多少はありますが、立場の低い猫の獣人である僕の言葉はほとんど聞いてもらえないと覚悟した方がいいでしょう。もちろんだからといって大人しくなぶりものにされるつもりはありませんが」

「何か策がおありなのですか?」

「策と呼べるようなものではありませんが……」


(彼ら、というのは一体誰の事だ? 川で襲って来た鷹の獣人の事なら、ここは奴らの住処なんだろうか……)


 アルベルトがドッツを振り返って口を開きかけた時、突然唸るような低い濁声だみごえが岩の床を這うように響いて来た。


「猫の王子ごときが我々に何の策を弄するつもりだと言うんだ?」


 シアンがハッとして出入り口の一つを振り返り、アルベルトとドッツは木の柵に顔をくっつけてシアンの振り返った先を凝視した。


(あれは……!)


 囚われのアルベルトの目にまず飛び込んできたのは、薄暗がりの中で爛々と輝く二つの金色の瞳だった。彼が一歩踏み出すごとに徐々にその姿がハッキリしてくると、厳つい輪郭の顔を覆うゴワゴワと豊かな茶髪や、茶色い毛皮の隙間から垣間見えるバキバキに割れた腹筋、丸太のように太い両手足がその全貌を露わにした。


(鷹では無い。あれは、獅子の獣人だ!)


「シド様」


 シアンはアルベルトたちを庇うように木の柵の前に立ちはだかると、その場で深々と頭を下げた。


「長らくご無沙汰しておりました」

「そうだな、最後に会ったのはいつだったか。見ないうちに随分と見た目が変わったみたいだな」

「恐れ多くも」

「布なんか体に巻き付けて、人間みたいな姿をしやがって」


 シドと呼ばれた獅子の獣人は棘のある口調でそうシアンに言い放つと、獰猛な金色の瞳で柵の中のアルベルトを睨みつけた。


「そいつら人間どもにうちの第三王子殿下が随分と世話になったみたいじゃないか」

「……一体何の話だ?」


 アルベルトも鋭い目つきでシドを睨みながら言い返した。冷えて風邪を引いたのか、しゃがれ声しか出てこないのが非常に口惜しい。シアンが心配そうな目でチラッとアルベルトを振り返った。


「とぼけるなよ。白獅子の子供を誘拐しただろうが。それが我らがレオ第三王子殿下だったんだよ」

「だから一体……」

「子供じゃねえって言ってんだろ、シド!」


 不意にシドとは別の少年のような声が部屋中に響き渡り、アルベルトは体をずらして声の主の姿を見ようと試みた。シドが入って来たのと同じ穴の入り口から、目の覚めるような真っ白な髪と毛皮を纏った少年が駆け足で部屋に入ってくる所だった。


「これはこれは、第三王子殿下」


 嫌味ったらしく恭しい態度で頭を下げるシドを見て、レオはきっと目の端を吊り上げた。


「慇懃無礼な態度を取るんじゃねえよ! 父上の手が空くまで、ここには入るなって言っただろ?」

「恐れながら、貴方様の発言に私に対する強制力などありませんよ」

「何だと?」

「ここは力が全て物を言う獅子の獣人国。お父上の側近風情の私に大きな顔をされたくなければ、早く大きくなって私を倒す事ですな。まあ簡単に人間に拉致される様ではまだまだ、とても私の上に立つ者としては認められませんがね」

「くそったれ!」


 王子の口から出たとはとても思えないようなレオの暴言は無視して、シドは口元に人を小馬鹿にした様な薄ら笑いを浮かべた。


「ところで、ルスラン陛下は何をぐずぐずしておられるのですか? さっさとこの人間を始末すればいいものを」

「レオ!」


 シアンが咎める様な声を上げ、レオと呼ばれた白獅子の若者は分かっていると言わんばかりにすぐに手を振って見せた。


「俺はこいつらに助けてもらったんだ。今回の事は不可解な点も多い。まずは情報を引き出すのが……」

「レオ! そうじゃないでしょ!」

「分かってるって! こいつらは命の恩人なんだ。丁重にもてなすべきだろ?」


 それまで口の端を歪める様に気味の悪い笑みを浮かべていたシドだったが、ここに来て急に真顔になると、金色の瞳に異様な光を宿しながらすっと瞳孔を細めた。


「下位種如きに随分と舐められているじゃありませんか、第三王子殿下?」

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