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第31話 シアンのまさかの反撃

 シドの纏っている空気がガラッと変化したのを肌で感じ取り、シアンの後頭部にぞわっと鳥肌が立った。


(まずいな……)


 シドがシアンに向かって重厚感のある一歩を踏み出すのを見たレオは、慌てて彼の後ろから回り込むように二人の間に割って入った。


「な、何するつもりだ? 父上が来るまで大人しく……」

「誇り高き獅子の獣人ともあろう者が、軟弱な下位の獣人に舐めた態度を取られっぱなしというのも癪な話でしょう?」

「いや、別にシアンは舐めた態度を取ってるわけじゃ……そもそもこいつだって一応猫の獣人国の王子だろ?」

「長男以外の王子に何の価値があると言うんですか?」


(ちょっと! それをレオの前で言っちゃうのか?)


 案の定、シドの発言はレオの地雷であったようで、彼の褐色の頬にみるみる沸騰した血が上っていくのが後ろから見ているだけでもよく分かった。


「ああ!? それは俺の事を言ってんのか?」

「今は猫の獣人の話をしていたはずですが?」

「まどろっこしい言い方すんじゃねえよ! 普段からオレの事もそういう目で見てるって事だろ?」

「はぁ、いちいち言葉尻に反応するなんて、相変わらずお子様でいらっしゃる」


 プツン、とレオの中で何かが切れたのをシアンが感じ取った瞬間、彼が止める間もなく前に飛び出した若い白獅子の王子は、まるで蝿を叩く様なシドの右手の一打ちで地面に叩きつけられた。


「ぶっ!」

「レオ!」


 慌てて駆け寄ろうとしたシアンだったが、シドはレオの首根っこを掴んでポイッと脇に放り投げると、地面に転がって呻いている王子には見向きもせずに、シアンの方へとまた一歩近付いて来た。


「ただでさえ価値が無いに等しい猫の第二王子だったのに、その見た目ではもはや猫の獣人とも言い難い」


 シドの目の中にある種の狂気がうごめくのを見たシアンは思わずそろそろと後退りしていた。取って食われるのではないかという本能的な恐怖に、全身の毛がザワザワと逆立っている。


「……シド様?」

「俺は人間という種族に対して、激しい嫌悪の念を抱いている」


 背中がアルベルトたちが囚われている木の柵に当たり、それ以上の退路を絶たれたシアンは小さくカタカタと震えながら迫り来るシドの目を見上げた。筋骨隆々の獅子の獣人は縦にも横にもがっしりとして大きく、シアンは自分が小さな鼠になって踏み潰されるような錯覚を覚えた。


「道具を使えねば我々より遥かに劣る種族であるというのに、頭でっかちに知能を発達させただけで俺たち百獣の王を下位種扱いするとは。どんなに俺の方が腕っ節で優っていても、性交渉の場で俺が奴らより優位に立つ事は叶わない」


 ガシッと両手首を掴まれて、そのままシアンは仰向けに地面に押し倒された。


「シアン!」


 アルベルトが叫びながら木の柵をガンガン叩いていたが、荒削りな顔とゴワゴワの茶色い髪の毛に視界を遮られて、シアンは周りの様子を見ることができなかった。


「かつて夢見た事があった。人間をいつか俺の下に組み敷いて、俺の方が生物として上であると、捕食者は我々獅子の獣人であると証明することができたらと」


 熱い息が顔にかかり、シドの体臭と混じり合ったそれはシアンの鼻腔を通って肺腑に入り込み、ムカムカとした不快感をもたらした。


(ア、アルベルト殿下の匂いと全然違う。何でこんなに気分が悪いんだろう?)


「お前は見た目は殆ど人間だが、中身は猫の獣人だ。お前を犯せばひょっとすると俺の夢は叶うんじゃないのか?」

「やめろ!」


 掠れた声でアルベルトが叫んでいるが、囚われの身の今の彼に殺気立ったこの獅子の獣人を止める術など無かった。もちろん組み敷かれるがままの脆弱な猫の獣人にも。


(こいつ、僕をこの場で犯す気なのか? アルベルト殿下の見ている前で?)


 肺腑に下りていた不快感が、胃液と混じり合って下からせり上がって来る。あまりの屈辱に涙が出そうになったが、目の奥にぐっと力を入れて何とかそれは阻止することに成功した。


(泣きながらヤられるなんて、冗談じゃない。そこまでこいつの期待通りになんかしてやるもんか!)


 シアンは最後の抵抗を試みる窮鼠の様に、強い光の宿った瞳でシドの金色の目を見上げた。


「……わ、私の体と引き換えに、人間の方々には手を出さないで頂けますか?」

「あ?」

「シアン!」


 シドはまるで虫ケラを見るような目つきでシアンを見下ろしながらフンと鼻を鳴らした。


「この俺に向かって、そんな貧相な体で取引を持ちかけようと言うのか?」

「シアン!」

「黙れ人間! それからお前もだ、猫の王子。この状況で俺とお前の間に取引が成立するとでも思っているのか? 俺は別にお前の条件を飲まなくたって、お前らから全てを奪い尽くす事が可能なんだ」


(そんな事言われなくたって分かってるさ。これは僕なりの最後の抵抗、悪あがきだ。ただ黙ってヤられるだけの脆弱な存在だなんて殿下には思われたくない。せめて殿下たちを守れたらって……)


 シドは太い両肘でシアンの両手を押さえつけると、空いた両手でシアンの顔を掴んで横に背けられないようにまっすぐ固定した。乗り上げられている下半身に物騒な固い物が当たっている。


(気持ち悪い……)


 息も、匂いも、肌から伝わる熱も、何もかもが不快で体が受け付けない。シドの顔が迫って来るのと同時に、体の内部からせり上がって来ていた嘔吐感がついに喉にまで到達した。と、次の瞬間。


「おええええぇぇぇ!」

「ぐわああああ!」


 まっすぐ仰向けに顔を固定されていたせいで、シアンは噴水の様に吐瀉物を目の前の顔に向かって噴き上げてしまった。反射的にシドは後ろに倒れる様に体をのけ反らせ、その隙にようやく起き上がれるようになったレオが呆然としているシアンをシドの陰から引っ張り出した。


「あ、レオ……」

「お前大丈夫か?」

「あ、僕は……」


 みぞおちの辺りがムカムカして、喉を焼かれるような痛みと共に第二波がぐっとせり上がって来る。


「うええぇ……」


 今度はちゃんと自身の尊厳を保った、奥ゆかしく模範的な嘔吐ができた。レオに背中をさすってもらいながら、シアンはその場にいる全員に背中を向け、両手を地面についてなるべく顔を地面に近付けながら声を必死に抑えて吐いた。


「……は、吐くほど拒否られるって、ちょっとヤバくないか?」


 こんな状況にも関わらずレオは必死になって笑いを堪えていたが、プルプルと小刻みに肩が震えるのを止められずにいた。ツンと吐瀉物で臭う口元を隠しながら、シアンは涙で潤んだ目を上げて必死の弁解を試みた。


「ち、違うんだ。本当にそんなつもりじゃ……いや、もちろん良かったわけじゃないんだけど、それにしたって……」

「無理矢理しようとすっからだろ? 自分より下位種だからって馬鹿にしてるから痛い目見るんだ」

「こいつ……!」


 嘔吐物だらけの額に青筋を立てたシドが、怒りに燃え上がった瞳でシアンとレオを睨みつけている。


(あ、まずいな。これは本気で怒らせてしまったんじゃ……)


「ぶっ殺して……!」

「誰をぶっ殺してやるって?」


 凛とした強い女性の声が洞窟内に響き渡り、その場にいた全員の目が反射的に声のした方へと吸い寄せられた。


「あっ、母上!」


 レオが無邪気な歓声を上げ、シドはあからさまに悔しげな渋面を浮かべている。雪の様に美しい豊かな長い白髪を背中に流したその白獅子の女性は、洞窟内に入って来るなり鼻に皺を寄せて眉を顰めた。


「何だいこの匂いは? 誰か吐いたのかい?」

「あ、すみません。それは……」


 白獅子の女性はシアンとレオをチラッと見た後、バツの悪そうな表情で顔を拭っているシドを一瞥した。


「お前たち一体何をやってたんだ? 近接戦で一発食らった猫が吐いたものをシドが被ったとか?」

「違うんです母上、腹を殴ったとかそんなんじゃなく……ぶふっ!」


 急に笑い出した息子を見て、白獅子の女性はさらに眉間の皺を深めた。


「シド、一体何があった?」

「レイナ様……」


 この女性の前で自分が襲われそうになった事を暴露されてはたまらないと、シアンは慌ててヒリヒリと痛む喉から声を絞り出した。


「に、匂いがキツくて……」

「あ? 匂い?」

「何でかよく分からないんですけど、ここの匂いっていうか、その、獅子の獣人の方々の匂いに反応してしまったみたいで。以前はこんな事なかったんですけど……」


 レイナと呼ばれたレオの母親は薄青い瞳をすっと細めると、シアンの身につけている人間の衣服に視線を置いた。


「お前、妊娠してるんじゃないか?」

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