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第32話 意地悪小姑にはなりたくない

 その場にしーんと水を打ったような沈黙が流れた。まるで時が止まってしまったかの様に、洞窟内にいる人間も獣人もポカンと口を開けたままその場に固まっている。洞窟の入り口に立つレイナだけが、怪訝そうに首を回して彫像と化している各々を見回していた。


「何だ? 私は何か変な事を言ったか? 彼は人間の妃なのだろう? 既にお手付きの跡もあるし、別にそんなに驚く事では……」

「は、母上、こいつは妊娠しているのですか?」


 最初に自我を取り戻したレオが口走った言葉を聞いて、レイナは息子をきっと睨み付けた。


「目上の者に対して『こいつ』なんて舐めた口の利き方をするんじゃないよ! しかも命の恩人なんだろう?」

「あ、す、すみません……」

「子供ができると匂いに敏感になって吐き気をもよおすことがあるから、そうなんじゃないかって思っただけだよ」


 レイナはつかつかと洞窟内に入って来ると、地面に座り込んでいるシアンの前にかがみ込んだ。


「ほら、立てるかい?」

「あ……」

「とにかくまずは体を洗わないと。話は全部それからだ。お前もこの洞窟内もひどい匂いだぞ」


 シアンは差し出されたレイナの腕の白い毛皮に慌てて縋りついた。


「ま、待ってください! 閉じ込められている二人の人間を先に解放してもらえませんか? 彼らはご子息の命の恩人なのに、このような扱いは如何なものかと!」


 正確にはアルベルトはレオの脱獄には何の関係も無かったのだが、当然この場でそんな余計な事を説明する必要など無かった。流石に若いレオもそれくらいは弁えていて、不満げな表情でアルベルトを軽く睨んだだけで、シアンの意に添って黙っていてくれた。


「……確かにそうなのだが、今は状況が状況で、人間に自由を与えるわけには……」

「この二人をここに置いて、私だけ外に出るわけにはいきません!」


(もし僕がいない間に、シドや他の獅子の獣人が二人に危害を加えたりでもしたら?)


 心配で心配で、とてもじゃないが体を洗いに行けるような状況ではなかった。


「……我々は百獣の王、獅子の獣人だ。か弱い猫の獣人一匹くらい、やろうと思えば片手でつまみ出せるんだぞ」

「シド、とりあえずお前は先に体を洗いに行け。お前の状況もだいぶ悲惨だからな」


 シドはシアンをギロリと一瞥すると、ガシガシと顔を引っ掻きながら踵を返して洞窟内から足早に姿を消した。


「とりあえず体を清めるんだ。そうでないと落ち着いて話すら……」

「私の夫とドッツさんを外に出してください!」


 レイナははぁっと深くため息をつくと、ようやく重い腰を上げてくれた。


「分かったよ。頑固な猫だな。お前と一緒に連れて行けばいいんだろ? もちろん拘束はさせてもらうぞ。レオ、手伝いな!」


 突然名前を呼ばれてレオは弾かれたように立ち上がると、拘束具を取りに洞窟の外へとだっと駆け出した。息子が縄を持って戻って来ると、レイナは木の柵にぐっと顔を近付けて中の二人に凄んで見せた。


「少しでも妙な真似をすれば私の爪で喉を引き裂いてやるよ。女だからって舐めてかかったら痛い目見るからね」

「お前ら人間は知らないだろうが、獅子の獣人は女性の方が実は強いなんて事がよくあるんだぜ。母上の狩の腕はこの国随一なんだからな!」

「レオ、あんたはちょっと黙りな」


 レイナはついでにレオも睨みつけてから、柵の隙間に手を入れてアルベルトの手首を縄で縛った。大人しく手を縛られているアルベルトを、シアンはまるで自分が縛られているかのように顔を歪めながら眺めていた。


「殿下、申し訳ありません。今しばらくの辛抱ですから……」

「いい、大丈夫だ。それより……」


 アルベルトはレイナが開けた木の柵の中からゆっくりと足を踏み出した。シアンを見つめる黒い瞳が、戸惑う様にちらちらと揺れている。


「シアン、妊娠しているのか?」

「えっ?」

「だからそういう話は体を洗ってからにしろって言ってるだろ! いい加減鼻がひん曲がりそうだ!」


 ぐいっと手首を縛っている縄を引っ張られて、アルベルトがバランスを崩してその場でよろめいた。咄嗟に手を出して支えようとしたシアンだったが、彼の赤い目元に気が付いてすぐにハッと腕を引っ込め、怪訝な表情でこちらを見ているレイナにすぐに抗議した。


「レイナ王妃殿下! あまり乱暴な扱いはおやめ下さい! 夫は具合があまり良くないのです」

「そうなのか? 具合が悪いのはお前じゃないのか?」

「私は平気です。でもアルベルト殿下は猫アレルギーで……」


 そこまで言って、シアンはアルベルトの容体が以前とは違っている事にようやく思い至った。目元は真っ赤に腫れて確かに辛そうだったが、呼吸は正常で前回のように意識不明の重体に陥っているわけでもない。


(ひょっとしてジャック先生の薬が効いてる? いやいや、治療には少なくとも三年はかかるって言われてるんだ。ほら、前は長時間密着してたけど、今回の接触は短い時間だけだったから……)


「猫アレルギー? ますます訳がわからん! これ以上お前たちと話していたらこっちがおかしくなりそうだ。いいからさっさと体を洗いに行けって!」



 レオの父親でレイナの夫である獅子の国の国王ルスランは、縦にも横にもがっしりとした非常に大柄な獣人で、シルエットはシドのそれと殆ど瓜二つであった。ゴワゴワの豊かな髪の毛まで同じ形をしているのに、色だけがレオやレイナと同じ純白なのが逆に不思議なくらいだ。

 数年ぶりに会う獅子の国の国王を前にして背筋を伸ばしたシアンは緊張している……と言いたいところだったが、実際は久しぶりに湯に浸かったせいで、少しばかりぼんやりとしているのが現状であった。


(お風呂、あったかかったな。別に水でも全然良かったんだけど……)


 ルスランに謁見する少し前、洞窟の側の川に連れて行かれた時の事だった。ドッツと数珠繋ぎにされて連れて来られたアルベルトが、縄を引いて歩くレイナに抗議の声を上げた。


「まさかここでシアンに水浴びをさせるつもりじゃないだろうな?」


 レイナは振り返ると胡散臭そうにアルベルトを睨み付けた。


「何を言ってるんだ? ここで体を洗うに決まってるだろう? ここまで来て他に何をするっていうんだ?」

「殿下、私は平気ですから……」

「シアンは水が苦手なんだ。川で水浴びをするのは怖いはずだ」

「高い崖から川に飛び込んだと聞いたが?」


 その時の事を思い出して一瞬言葉に詰まったアルベルトだったが、すぐに気を取り直して真っ直ぐにレイナを睨み返した。


「あの時は普通の状態じゃなかったんだ。それにこんな寒空の下で水浴びだなんて正気の沙汰じゃない。風呂桶に湯を張って使わせてくれ」

「殿下!」

「お前はアホなのか? この状況でそんな贅沢を要求するなんて……」

「俺が使う事を要求しているんじゃない。シアンはお前らと同じ獣人で、王子で、しかもお前の息子の恩人だろう?」


 レイナが一瞬怯んだ隙に、しんがりを務めていたレオもアルベルトの発言を援護してくれた。


「そうですよ母上。それに、妊婦が体を冷やすのって良くないんじゃありませんか?」


 アルベルトは複雑な表情でレオを振り返り、レオも挑戦的な視線で彼を見返した。今にも火花が飛び散りそうな二人を見て、レイナがうんざりしたようにため息をついた。


「わーかったよ、もう! これだから最近の若い者は! 私の頃なんかは大きなお腹をしていても平気で狩に出かけてたものだけどね」

「あの、私は別にここでも……」

「うるさい! これじゃあ私が意地悪な小姑みたいじゃないか! 別にお前の義母でも何でもないんだけどね!」



 そんなこんなで、シアンはここ獅子の獣人国にて、温かい湯で体を洗える権利をなぜか得ることになったのであった。おそらくさっきの川で汚物を洗い流したのであろうシドの視線が、心なしか先ほどよりさらに冷たく感じられる。


「……殿、シアン殿!」


 ルスランに呼ばれていることに気が付いて、シアンはようやくぼんやりとした世界から現実に引き戻された。


「はっ、はいっ!」

「大丈夫かね? 心ここに在らずといった様子だが」


 強面の表情からは想像もつかないほどの優しい声に、シアンはどこか拍子抜けしながらも深々と頭を下げた。


「陛下の御前で大変失礼致しました」


(ルスラン陛下は以前お会いした時も優しい方だったけど、歳を取ってさらに丸くなられた気がするな)


「良い良い。それよりも此度は息子を救ってくれたそうではないか」

「あ、それは私ではなくて……」


 シアンの視線の先を見て彼の言いたい事を瞬時に理解したルスランは、うんうんと頷きながらドッツの隣に座っているアルベルトに視線を向けた。二人の人間は手こそまだ縛られたままだったが、シアンと同じように客人としてルスランに謁見する事を許されていた。


「人間の王子よ。此度のことに関しては礼を言うと共に、聞きたいことがいくつかある」


 アルベルトも縛られて不自由な手で出来うる限りの礼節をもって獅子の獣人の国王と対面した。


「私も、陛下にお聞きしたいことがございます」

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