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第35話 シアンの弁明

「本当に私が妊娠しているのかは分かりませんが、もしそうだとすれば、その子は間違いなくアルベルト殿下の子供です」


 これだけは絶対的な自信を持って言うことができるシアンは、迷いのない瞳で愛する夫の黒い瞳を真っ直ぐ見つめながら切実にそう話し始めた。


「確かに、シアン様が殿下と関係を持たれたのは輿入れ初日ですから、日数を逆算しても悪阻の症状が見られる時期としてはおかしくはないと思います」

「ドッツさん、詳しいんですね」

「私は亡くなった皇后様がアルベルト殿下をご懐妊された時もずっと王家にお仕えしておりましたので。それに四十年以上生きていれば、それくらいの知識は付くものですよ」

「だが、一度の行為で簡単に授かるものではないと私は聞いているのだが?」


 先ほどよりは落ち着いているものの、やはり猜疑心を拭い切ることはできないのか、アルベルトは不審げな表情のままドッツに食ってかかった。


「一度で授かるとは限らないというだけで、授からないというわけではありません。むしろ行為に及ぶ際は授かる覚悟を持って臨まなければならないということです」


 論理的なドッツの言葉を聞いて、アルベルトの険しく皺の寄っていた眉根が少しばかり緩んだようにシアンの目には映った。夫のその変化に勇気づけられるように、シアンはでき得る限りの誠意を込めて言葉を続けた。


「勝手にお城を出て行ったことは弁明のしようがありません。でも、決して殿下を害する魂胆があったわけでも、戦争のことを知って逃げ出したわけでもありません」

「では、一体どうして私に何も言わずに勝手に出て行ったりしたのだ?」


(殿下に誠意を見せなければ。僕のためにこんなにボロボロになっている、この人の真心に報いなければ)


 シアンには分かっていた。王子という高貴な身分にも関わらず、アルベルトがたった一人で船を操縦してシアンを追って来た、その意味を。


(危険を承知で一人で追って来たんだ。誰か他の人間を一緒に連れて来たら、僕の命が危うくなると心配して)


 だからシアンの身の安全を確保する代わりに、自分自身の身の安全を引き換えにしたのだ。その結果、鷹の獣人たちに襲われて危うく命を落としかけた。

 恥ずかしくて白々しくて、できれば墓場まで持って行きたい理由だったが、シアンは深く息を吸うと、釈明を求めるアルベルトの視線を真っ直ぐに受け止めながら口を開いた。


「殿下が私を愛して下さっていると感じたからです」

「……え?」


 愛されていないと感じたからの間違いではないのか? と、アルベルトの視線がそう語っていた。


「だったらどうして……?」

「私がお側にいるせいで、殿下が他のお妃たちの魅力を見ようとしないのではないかと、そう危惧したからです」


 アルベルトはシアンがやっとの思いで絞り出した彼の動機を、何も言わずに真剣な表情で一言一句聞き漏らすまいとするかのようにじっと聞いていた。


「私という存在が、獣人と人間の平和の妨げになっているのではないかと、そう考えたからです」


 そして、それがアルベルト自身の幸せの妨げにもなるのではないかと。


(自分が他のお妃たちより愛されているから出て行っただなんて、一体どれだけ自意識過剰な発言なんだ!)


 今にも不安で崩れ落ちてしまいそうな心を抱えながら、穴があったら入りたくなるほど恥ずかしい自分語りを終えたシアンは、小刻みに震えるの抑え切れない自身の指先を手のひらに爪が食い込むほど強くギュッと丸めていた。

 シアンの話を聞いて、少しの間下を向いて黙りこくっていたアルベルトだったが、やがてゆっくりと顔を上げると再び視線をシアンに合わせた。


「……そうだな。あなたならきっとそんな風に考えて行動するのだろうと私も思う」

「ちょ、ちょっと待てよ! シアンから逃げ出した理由は詳しく聞いてなかったけど、今の話から察するに、そいつに他のお妃と仲良くして欲しかったからって事だよな? 一体どうしてそうなるんだ?」

「さっき聞いただろう? アルベルト殿下は猫アレルギーをお持ちで、シアン様と触れ合うと不調が出るんだ。それで子供を作るのが困難だから、シアン様は他のお妃に殿下の子供を産んで欲しいと思っておられるんだよ」

「でもそれなら、こいつが妊娠してたらその問題は解決するって事だよな?」


 そのレオの言葉は、夜が明けた瞬間に差し込む一筋の太陽の光のように、闇に沈んでいたシアンの心をさあっと照らし出した。アルベルトとシアンが同時に視線をゆっくりと下ろし、二人の視線の先が交わる場所、自らの体の中心部分を、シアンは思わず両手でそうっと覆っていた。


(あ、そうか。もし本当にここに、新しい命が宿っていたとしたら……)


 もしそうならば、他のお妃と仲良くして欲しいなどと、思ってもいない事のために行動する必要など無くなるということだ。自分の心のままに、ただただ愛する人にもっと愛されるための行動を、何のしがらみも罪悪感も無く取ることができるということである。


「……何だか幸せそうな雰囲気のところ悪いけど、今は人間と獣人は一触即発の状態なんだ。まるっと全てが都合よく解決してハッピーエンド、というわけにはいかないだろ」


 いつのまにやって来ていたのか、白獅子のレイナ王妃が洞穴の入り口の壁に寄りかかり、腕組みをした状態で顔だけこちらに向けて中の様子を覗っていた。シアンたちが彼女に気付いてはっと背筋を伸ばしたため、レイナ王妃もよっと勢いをつけて壁から背中を離すと、後ろに控えていた獅子の獣人の老婆に目配せした。


「まぁそうは言っても、人間と獣人の王族のハーフの子供が生まれれば状況は大きく好転するだろうがな。とにもかくにもまずはそいつの体の状態を産婆に確認してもらわないと」


 レイナに連れられてやって来ていた獅子の獣人の産婆は、のっそりとした動作でシアンの前に腰を下ろすと、皺に埋もれて細くなった金色の瞳をめいいっぱい細めてシアンの顔をじっくりと観察してから、おもむろに彼の手首を掴んで脈を取り始めた。


「……うんうん、この脈は間違いないね。おめでとう、妊娠しているよ」

「ふぁっ! はい……」


 まるで審判が降りるのを待つ罪人のように緊張していたシアンは、下された結果にホッとして思わず上擦った声が出てしまった。


「あ、す、すみません。ありがとうございます……」

「全く、子供ができてたなら慌てて逃げ出す必要なんてこれっぽっちもなかったんじゃないか」


 レオの厳しい指摘に返す言葉も見つからず、シアンは安堵する一方で強烈な罪悪感と羞恥心に苛まれてもじもじと下を向いていた。


(レオの言う通りだ。たくさんの人に迷惑をかけて大騒ぎしたくせに、実はそもそも国を出る必要すら無かっただなんて……)


「いや、それはそうとも限らないぞ」

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