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第二部 出産編

第37話 シアンの妹

 どんよりと曇った寒々しい空を背景に現れた深い緑の森を見て、アルベルトは思わず戸惑ったように首を傾げていた。


(これが猫の獣人国の統治者が住む建物……なのか?)


 肯定的な見方をすれば、自然豊かな緑の楽園。逆に否定的な見方をするなら、何もないただの森。人間の国の次期王位継承者であるアルベルト王子が、猫の獣人国第二王子にして最愛の妻であるシアンに案内されたのは、まさにそのような場所であった。


(獅子の獣人の王族が住んでいたのは、自然にできた洞穴のような場所に少し手を加えて住みやすく整えた住居だった。私の国の城とは比べ物にはならないが、それでも為政者の住居としての貫禄のようなものが備わっていたように思えた)


 果たしてこの森の中に、猫の獣人の王族が住むのに相応しい住居が存在するのだろうか?


「シア……」

「うわぁ、本当に帰って来たんだ!」


 シアンは故郷を出てからまだそう何ヶ月も経っていないにも関わらず、アルベルトにはただの森にしか見えないその場所を、エメラルドの瞳をキラキラさせながら懐かしそうに眺めている。そんな愛する人の様子を微笑ましく思ったアルベルトは、開きかけた口をそっと閉じて口から出かかっていた無粋な言葉を引っ込めた。


「故郷が懐かしいのか?」

「はい……あっ! 別に人間の国が嫌だとか、決してそういうわけではないのですが……」

「別に私に気を遣う必要は無い。あなたにとって、人間の国の印象はあまり良いものでは無いはずだ」


 たった二ヶ月ほどの期間でしかなかったが、人間の国でシアンが受けた仕打ちは過酷なものばかりだった。犠牲を払って嫁いで来たにも関わらず、夫を害しようとしたなどという酷い濡れ衣を着せられて鞭で打たれたり牢屋にぶち込まれたり、挙げ句の果てには後から現れた側妃たちによって妃という立場まで危うくされることになったのだ。


(私の国の事など嫌いになって当然だ。私としては残念な話だが、そう考えると図らずも故郷に戻れる結果になって、彼にとっては良かったのかもしれないな)


「……殿下?」


 宝石のように美しい瞳で心配そうに覗き込まれて、物思いに耽っていたアルベルトははっと我に返った。


「ああ、すまない。何か言ったのか?」

「大丈夫ですか? 猫の獣人の集まる地域に近付いているので、やはりお体が優れないのでは……?」

「いやいや、それは大丈夫だ。ジャック医師が調合した薬は確実に効果を発揮している」


 アルベルトはシアンに心配をかけないよう、努めて明るい口調でそう言いながら、常に持ち歩いている薬の瓶を人差し指の爪の先でコツコツと叩いてみせた。


「あなたが生まれ故郷を見て目を輝かせているものだから、嬉しく思うのと同時に私の故郷でももっといい思いをさせてやりたかったと考えていたのだ」

「そんな、恐れ多い事です」


 シアンは子供のようについはしゃいでしまった自分を恥じるように、頬を赤らめながらもじもじと下を向いた。


「違うんです。ここは生まれ育った馴染みの深い土地で、私の家族も住んでいて……確かに人間の国では色々ありましたけど、でも私は人間の国に嫁ぐことができて、本当に良かったと思っています」


 シアンは恥じらいに目元を潤ませながらも、真剣な表情で真っ直ぐアルベルトと視線を合わせた。


「殿下の妻になることができるのなら、私は何度同じ生を繰り返すことになっても、必ず同じ選択肢を選ぶのだと思います。猫アレルギーの殿下には申し訳ないのですが……」


 このように純真で遠慮がちで、しかし底知れぬ強さを秘めた告白を受けることになるとはつゆほども思っていなかったアルベルトは、少しの間まるで時が止まったかのように呆然と目の前の妻とその場で見つめ合っていた。


「……なんだかいい雰囲気のところ悪いんだけどさ」


 ギリギリまで二人の間に水を差すのを控えていたレオだったが、これ以上待てないというところまで溜めてからようやく警戒するような声を発した。


「あそこの木の陰から誰かがこっちを見てるぜ」


 シアンとアルベルトがさっと振り返った瞬間、ガサガサッと藪をかき分けるような音がしたかと思うと、常緑樹の葉の間からぴょこんと小さな影が飛び出して来た。


「あっ!」


 その少女は衣服を身につける代わりに、月の光のような銀色の毛皮で全身を覆っており、毛皮と同じ色の癖のある長い髪を背中の辺りに波打たせて、今にもこぼれ落ちそうに大きなエメラルド色の瞳でアルベルトたち一行をじっと凝視していた。


「ティーザじゃないか!」


 シアンに名前で呼ばれた少女は一瞬ビクッと体を硬直させたが、突然目にも止まらぬ速さでダッと木の陰から飛び出すと、アルベルトが気付いた時には既にひしっとシアンの腰に飛びつくような姿勢で抱きついていた。


「お兄様!」


(あっ、この子が以前シアンが言っていた妹たちの一人なのか)


 アルベルトたちが見守る中、シアンも嬉しそうな表情で、腰に抱きついている妹の尖った耳の生えた頭をよしよしと優しく撫でている。


「ティーザ、よく僕に気が付いた……」

「お兄様!」


 だいぶ歳の離れた兄妹なのか、ティーザはシアンよりもずっと幼い少女に見えた。背も彼の胸元あたりまでしかなく、兄の言葉を遮ってグリグリと頭をシアンのみぞおちに押し付ける動作も成人女性の行動とは思えなかった。


(そういえば、叔父上は猫の姫君も全滅だったと仰っていたが、この子も私の妃候補だったというわけか……)


 予想以上に幼い見た目をしている猫の姫君に、アルベルトは背筋にぞっと悪寒が走るのを感じた。


(あ、危なかった! こんな子供みたいな妻、いくら平和のためとはいえとてもじゃないが抱く気になどなれない)


 シアンしか抱いたことのないアルベルトは、今この瞬間ようやく自分の性癖に気が付くこととなったのであった。


「お兄様のお姿があんまりにも変わっていらっしゃったので、ティーザはすぐには分かりませんでした。でも声を聞いたらお兄様だとすぐに分かりました!」

「他のみんなはどう? 元気にしてた?」


 感動の再会を果たした瞬間の高揚感が少し落ち着いたティーザは、兄から体を離すとチラッと周りの人間と獣人を恥ずかしそうに見回した。


「元気です。でもみんな、シアンお兄様のことをすごく心配していました」

「こっちにはどれくらいの情報が伝わっているの?」

「私たちの国にはあまり詳しい情報は伝わっていなくて。でも人間の国と戦争が起こりそうだという話は聞いています」


 兄の腕に自分の腕を絡めて甘えたように引っ張りながら、ティーザは今度はしっかりとアルベルトに視線を合わせた。


「このお方が、お兄様の旦那様なのですか?」


 シアンはそこでようやくアルベルトたちを放置していたことに思い至り、慌てて妹の肩をずいっと推して三人の前に一歩進み出るよう促した。


「ご紹介が遅れて申し訳ありません。こちらは私の末の妹で、猫の獣人国第三王女のティーザと申します」


 兄の紹介を受けたティーザは、三人の客人に向かってきちんと膝を折ってお辞儀をした。


「兄がいつもお世話になっております」

「こちらこそ。シアンの夫で人間の国第一王子のアルベルトです」


 小さな獣人の妹にもアルベルトが丁寧な口調で自己紹介するのを見て、シアンは何となくほっこりとした気分になって思わず微笑んだ。


「人間の方ってあんまりお会いしたことがないんですけど、アルベルト殿下は背も高くていらっしゃって、なんだか強そうですね」

「そうですか?」

「はい! 殿下にお会いするまでは人間ってもっと弱々しい生き物なのかと思って心配していましたけど、体も強そうですし獅子の獣人までお供に連れていらっしゃるなんて! 殿下ならきっとお兄様のこと、しっかり守って下さるでしょう」


 アルベルトのお供扱いされたレオが目尻を吊り上げて抗議しようとしたが、ドッツが笑いを堪えながら首を振ったためぐっと思い止まった。


「それで、こちらへはどのような目的でいらっしゃったのですか? もしかして新婚旅行ですか?」

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