無邪気で下心の無いティーザの質問に、一行は思わず戸惑ったように顔を見合わせた。
「……ティーザ、今は戦争が起こりそうな状態だって、お前も今さっき言ってたじゃないか。とてもじゃないけど新婚旅行なんかしていられる場合じゃないだろ? そもそも新婚旅行先が自分の実家ってのもおかしくない?」
「それはそうですけど、新婚旅行って新婚の間しか行けないじゃないですか。だからこんな状況でも行けそうなお兄様の故郷を選んだんじゃないかって思ったんです」
(えっ! 新婚旅行って新婚の間しか行けないの?)
驚いたシアンが思わずアルベルトを見上げると、ちょうど同じタイミングで彼の夫も同じような表情でシアンを振り返るところだった。
「そうなのか?」
「確かに新婚では無くなってから行く旅行を新婚旅行とは言えませんね」
「すまない。色々あってそこまで考えが及んでいなかった。しかしそれでは……」
「お二人とも落ち着いて下さい! 新婚旅行なんてものは別にご本人たちの都合で行っても行かなくてもいいものなんですよ。時期だって結婚前に行く者もいれば、数年後に子供を連れて行く場合もあります」
ドッツが慌ててそう説明したが、それを聞いたアルベルトは納得するどころかさらに表情を険しくさせた。
「それではただの家族旅行ではないか!」
「要は環境が整っていないのに無理に計画する必要などないということですよ。お二人にストレスのないタイミングで行きたいところへ行って、それを新婚旅行ということにすればいいのです。なぜそこまで新婚時に行く新婚旅行という形にこだわるのですか?」
少し厳しめの口調で問いかけたドッツに、アルベルトは少し興奮気味だった自分を恥じるように声量を抑えてポツリと呟いた。
「私は……シアンに何も夫らしいことをしてやれていない。婚姻の儀も取りやめになっているし、父上は他の側妃を優遇するような様子を見せているし、正式な場で一緒にダンスを踊ることすらできなかった」
「え……?」
(驚いた。殿下、あの舞踏会の時のこととか、その他にも色々なことを気にしておられたのか……)
「でも一緒に旅行に行くことぐらいならできるのだから、せめてそれだけでも……」
「殿下!」
アルベルトが罪悪感を声音に滲ませながら話すのにこれ以上耐えきれず、シアンは慌てて彼がこれ以上シアンに対する懺悔を続けないよう自分の言葉で遮った。
「殿下は何も悪くありませんし、私はそれらの事に関して特に何も思っておりません。ダンスは……いつかご一緒できたらとは思っておりますけど」
「えっ?」
今度はアルベルトが驚いた様子で上擦った声を上げていた。
「今私が上げた例の中で、一番やってみたいのがダンスなのか?」
「殿下、猫の獣人というのは歌や踊りが大好きな種族でして、彼らの舞踏会はそれはそれは見事なものなのですよ」
ドッツの説明を聞いてティーザもぱっと表情を輝かせると、再びシアンの手を引っ張りながら体をゆらゆらと左右に揺らした。
「そういえばもうすぐ満月です。しばらくこちらに滞在できるなら、私たちの舞踏会に参加できますよ!」
そう言った後、ティーザは不思議そうな表情で兄の顔を見上げた。
「ところでお兄様、旦那様に夫らしいことをしていただいていないのですか?」
「えっ? いや、そういうわけじゃなくてね……」
「でもお兄様、人間の殿方のような見た目になってますよ。夫婦の営みはきちんとなされているという事ですよね?」
「え? えっと……」
シアンが幼い妹にどう説明したものかと目を白黒させていると、アルベルトが真剣な表情で兄妹の近くに一歩踏み出した。
「実は色々と混み入った事情があるのだ。あなた方のお父上である猫の獣人国国王陛下に謁見することは可能だろうか?」
「もちろんですよ! すぐにご案内いたします」
ティーザがアルベルトの腕を引っ張るつもりで手を伸ばしたため、シアンは慌ててその手を掴んで自分の方へと引き寄せた。
「お兄様?」
「殿下に触れてはだめだ」
シアンは猫アレルギーの件を妹に説明しようとしたが、彼が口を開く前にティーザはニヤニヤと笑いながらぱっとシアンから離れると、楽しげな表情でその場でくるりと回ってから兄と向き合った。
「嫌ですわ、お兄様。ティーザはお兄様の旦那様にちょっかいをかけたりなんかしませんわ」
「え? いや……」
「政略結婚で嫁いで行かれたお兄様のこと、みんな心配していたのですけれど、余計なお世話だったみたいですね」
「いや、ちょっと待って! そうじゃなくて……」
慌てて弁明しようとしたシアンだったが、ふと視界に入ったアルベルトが何となく満更でもなさそうな表情をしていることに気が付いて、それ以上否定する言葉が出てこなくなってしまった。
(ま、まあいいか。どうせみんなの前で説明しなきゃならないんだから、今はそういうことにしておいても……)
十歳以上も離れた幼い妹に嫉妬していると思われるのはひどく恥ずかしかったが、満足そうな様子のアルベルトを見るのは嬉しかった。
(そうだよ。別にティーザに思うところがあったわけじゃないけど、やっぱり誰かが殿下に触れるところを見るのはいい気がしないのは確かだから……)
◇
一見何もないただの森にしか見えないその場所に、しかし確かに猫の獣人国は存在した。人間のような立派な建物を建築する技術を持たない彼らは、あるがままの自然に自分たちが合わせるような生活様式を形作っており、その住居は森の中に溶け込むようにぽつぽつと点在していた。
「あれが私たちのお城です!」
嬉しそうに一行を先導していたティーザが指をさした先を見て、アルベルトはとっさに表情を取り繕うことができずに思わず目を瞬いていた。
(これは……お城、と言ってもいい物だろうか?)
確かにここまで来る道すがら通り過ぎてきた一般の猫の獣人の住む家は、木のうろだったり岩のくぼみだったり横穴だったりと、おおよそ建物と呼べるような代物ではなかった。その点シアンの妹が誇らしげにお城と呼んで指し示した棲家は、簡易的ながらも木を組み合わせて作った家の形をしており、確かに他と比較すれば作るのに手間暇のかかる贅沢なお城だと言ってもいい気がした。
「こんなにたくさんのお部屋がある棲家は、私たちの国ではこのお城だけなんです。お兄様と旦那様は同じ部屋で、従者の方々にもお部屋を用意できますよ!」
「ティーザ、家の説明はそのくらいにして……」
恥ずかしそうにそう妹を嗜めるシアンを見て、アルベルトはハッとして慌てて笑顔を作って見せた。
「我々人間と違って技術を持たない選択をして、自然と共にある生活を営んでいる種族にも関わらず、このような立派な建物を作り上げることができるとは驚いた」
「ありがとうございます! お兄様の旦那様のお城にはたくさんお部屋があるのですか?」
「ああ、たくさんある。いつか家族全員で私の城も訪れて欲しい」
「ええっ? 全員で行っても大丈夫ですか? うちにはお父様とお母様の他に、お兄様とお姉様も二人いるんですよ!」
「心配は無用だ」
ティーザが軽やかな足取りで自分のお城に駆け出して行くのを見送りながら、シアンは恐縮したように小さな声でアルベルトに謝った。
「お気を遣わせてしまって申し訳ありません。猫の獣人のお城など、人間の国の一般市民の住居にも及びませんのに……」
「確かに機能的に劣る部分は多々あるだろう。しかし、あるがままの自然と共存して生きるというその思想には、我々人間も見習うべき部分があることもまた確かだ」
アルベルトは優しい笑みを浮かべながら、お城と呼ばれたシアンの故郷の木造の住居をゆっくりと見上げた。
「総合的に見て、どちらが優っていてどちらが劣っているなどと安易に決められるものではない。それぞれ別々の思いや役割を持ってその形へと帰着しているのだからな」
自分とは異なる弱い種族。自分の国ほど土地も技術も発展していない後進国。そのような前提で、アルベルトは決して猫の獣人国を見下すような事はしなかった。
(生態系の頂点に君臨する人間の中には、獣人のことを下等種族と見なして差別する者もいるのだと聞いたことがあったけど……)
シアンはアルベルトと出会ってから、自分に対して真摯で誠実な彼の態度をずっと好ましく思ってきた。しかし嫁入り前にリナルドから聞かされていた『聖人君主の器である』という言葉を強く意識したのはこの時が初めてであった。
(自分とは異なる価値観を頭ごなしに否定せず、受け入れて理解しようと努力する。生態系の頂点に立っているにも関わらず、決して奢ること無く他者から学ぼうとする謙虚さも持ち合わせていらっしゃる)
ルイス国王の教育の賜物か、それとも生まれ持った天性の気質なのか。
(やはり僕の夫は尊敬に値するお方なんだ)
思わずぼうっとしながらアルベルトを眺めていたシアンの耳に、その時懐かしい家族の声が遠くの方から聞こえて来た。
「シアン!」