ハッとして振り返ったシアンの目に、銀髪を短く刈りそろえた精悍な顔つきの猫の獣人男性の姿が飛び込んで来た。
「ギルバート兄さん!」
木造の建物から出てきたシアンの兄のギルバートは、ティーザに手を引かれながら慌てた様子でシアンの元へと駆け寄って来た。
「どうしたんだ? 一体なぜこんなにも早く戻って来た? 嫁ぎ先で何か……」
そこまで口に出してから、ギルバートはシアンの隣に立つ背の高い黒髪の青い衣を身につけた人間の姿に気が付いてはっと表情を強張らせた。
「もしかしてそこにいるのは……」
「兄さん、この方が僕の夫のアルベルト殿下だよ」
ギルバートは一瞬緑色の瞳の中に警戒心をちらつかせたが、一度瞬きする間に不穏な光は瞼の裏に隠したのか、すぐに友好的な表情を取り繕って愛想の良い笑顔を浮かべた。
「やはりそうでしたか。愚弟がたいへんお世話になっております。猫の獣人国第一王子、ギルバートです」
「人間の国の第一王子、アルベルトです」
ギルバートが突然距離を詰めてぐっと顔を近付けてきたため、アルベルトは驚いて思わず大きく一歩後ろに後ずさった。伸ばした兄の手がアルベルトの肩に触れる前に、シアンが慌てて飛び出して兄の両手首をぎゅっと掴んだ。
「殿下に触れないで!」
「シアン?」
「いけませんわ、ギルバートお兄様。シアンお兄様はとても嫉妬深くていらっしゃるんですのよ」
「そうだったのか? それは知らなかった。しかし挨拶さえさせてもらえないというのは、さすがに束縛が過ぎるんじゃないか?」
「兄さん、またみんなが揃った時に詳しい説明はするつもりなんだけど、理由はなんにせよアルベルト殿下には決して触れないようにしてくれるかな。それから兄さんはアルベルト殿下の国の文化について勉強してないから知らないと思うけど、僕ら獣人のスキンシップは殿下の国ではあまり一般的ではないから気を付けて」
「そうなのか?」
「そうだよ。初対面の相手と鼻をこすり合わせたりする習慣は殿下の国にはないんだ」
驚きで皿のように真ん丸に見開かれた目で見つめられて、アルベルトは少し居心地が悪そうに身じろぎした。
「そうですね。そのような行為は親密な相手としか私の国では行いません」
「親密とは、親兄弟のような関係ということですか?」
「親……は無いですね。私の場合は妻であるシアンとのみ行う行為となります」
「そうでしたか。それはこちらの勉強不足で大変な失礼をいたしました」
ギルバートは礼儀正しく頭を下げると、起き上がると同時に右手を伸ばして木造の建物を真っすぐ指し示した。
「それではどうぞこちらへ。我が国の国王陛下がお待ちでございます」
◇
ティーザがお城だと自慢げに紹介しただけあって、木造の建物の内部は外観から想像するよりずっと居心地よく生活できるよう工夫された空間となっていた。綺麗に磨かれた木の床の上には草で編んだ敷物が敷かれて足に優しく、床から伝わる冷気を緩和する役割を果たしている。隙間風が侵入するのを防ぐことはこの木造建築では難しいようであったが、部屋の中にいくつか置かれた囲炉裏の火が温かく、恐れていたほど寒さに悩まされる心配はなさそうであった。
「アルベルト殿下、よくぞ我が国へお越しくださいました」
恐らく謁見の間のような使われ方をしているのであろう狭い一室に案内されたアルベルトは、そこで初めてシアンの両親と対面することとなった。
木でこしらえた王座に腰掛けている猫の獣人の国王陛下は、短髪で眼光の鋭いギルバートによく似た容姿をしており、その隣に腰掛けている優しい目をしたくせ毛の皇后の方がシアンの容姿に近いようにアルベルトの目には映っていた。
「こたびは事前に何の連絡もなく、いきなり押しかける形になってしまった非礼をどうぞお許しください」
「お顔を上げて下さい。我々は既に親戚となった間柄ではありませんか。そのような気遣いなど不要です。いつでも気兼ねなくいらして下さいな」
息子とその夫に会えて嬉しそうな様子のシアンの母親にそう言われて、アルベルトはもう一度深く礼をしてからすっと顔を上げた。
「シアンは殿下のお国でも上手くやっていけていますか? ちゃんと殿下のお役に立てていますでしょうか?」
「もちろんです。彼は礼儀正しく情に厚く、私にはもったいないほどの伴侶です」
思わず顔を赤らめて下を向いている息子を見て母親はますます嬉しそうな表情を見せたが、父親である国王陛下とその横に控えている兄のギルバートは硬い表情のまま、鋭い目つきで草の敷物の上に正座しているアルベルトに視線を注いでいた。
「……アルベルト殿下、到着早々で申し訳ないのですが、いくつか聞いておかなければならないことがありまして」
「それは当然のことかと。なんなりとご質問なさってください」
国王と目線を合わせて頷いたギルバートが、一歩前に出てアルベルトに対する質問を開始した。
「では遠慮なく、最も重要な質問からさせていただきます。数日前に獅子の国から、殿下の国との戦争が勃発しそうであるという旨の通達を受け取っているのですが、その真偽をお聞きしたいと思います」
「お兄様! あの話はやっぱり獅子の勘違いか何かだったんですよ! でなければどうしてお兄様と旦那様が国境を越えて私たちの国に来ることができたっていうんです?」
「ティーザ、ちょっと静かに……」
「大体シアンお兄様がお嫁に行ったのに戦争が始まるだなんて、おかしいじゃないですか。だったら何のためにシアンお兄様がわざわざ種族の垣根を越えて政略結婚なんか……」
「ティーザ! ギルバートお兄様のお話し中なんだから黙りなさい」
隣に座っている姉にそうたしなめられて、ティーザは不満げに唇を尖らせながらしぶしぶ口を閉じた。
「……戦争が起こりそうであるというのは事実です。但し双方の主張に食い違いがあって、我々は現在の状況は何者かによって仕組まれたものであると考えております」
「我々、と言いますと?」
「私と、獅子の獣人国の国王陛下です」
「俺をさらったやつが人間と獣人の間に戦争を起こしたがってんじゃないかって話してたんだよな?」
一瞬、狭い木造の屋内がしーんと水を打ったように静まり返った。
「……え、さらわれたって、その、もしかしてあなた様は王子殿下でいらっしゃいますか?」
動揺でしどろもどろになりながらギルバートにそう聞かれて、レオはようやく正体を明かす機会を得られたと言わんばかりに立ち上がって胸を張った。
「獅子の獣人国第三王子レオ様とは俺のことよ」
「ええ~? アルベルト殿下の従者じゃなかったんですか?」
「誰がそうだって認めたよ、ちび猫が」
「ちび……!?」
「ティーザ、黙りなさいったら!」
再び姉に怒られたティーザが口を閉じるのを見計らってから、アルベルトが説明を再開した。
「獣人側の主張はこうですが、我々人間側は兵士を獣人に拉致されたという認識で、レオが人間の国に囚われていたことなど全く知りませんでした」
「なるほどそういうことですか。それは確かに何か陰謀の気配がしますね」
ギルバートは納得したように頷くと、二つ目の質問を口にした。
「これはシアンに聞きたいんだが、理由はなんにせよアルベルト殿下に触れてはいけないというのは一体どういうことなんだ?」