そのまま暫く二人で歩き、やがて見えて来た逢坂家の玄関をくぐった。
「そういや、あんたって招かれないと家の中に入れないとかあるの?」
「おいおい、どこぞの低級と一緒にすんなよ」
「なんだ、関係ないのね」
「まぁ、俺様くらいの存在になりゃな。ある程度結界が張ってあったとしても関係ねぇな」
丁寧に靴を揃えた深雪の横で、そのまま靴を脱がずに上がり込もうとすれば、物凄い勢いで肩を押された。
なんだよ、と不満そうに睨みつければ、「あのねぇ」と深雪がため息交じりに言う。
「あんた今実体化してるんだから、靴脱ぎなさいよ」
「はぁ? ……いちいち細けぇなぁ」
「常識でしょ! 蓮夜の家じゃどうしてるのよ」
「ばあさんがうるせぇから、実体化した場合は脱ぐな」
「ならうちでもそうしなさいよ!」
靴を指さしながらブツブツ文句を言うもんだから、うるさくて仕方ない。
やれやれと肩をすくめて靴を脱いでやれば、納得がいったのか、ようやく大人しくなった。
踵を返して廊下を進んでいく深雪の背を、数歩離れてついていく。
正面にあるすりガラス付きの扉を開けて中に入れば、そこは台所兼リビングとなっていた。
壁に向かうような形で台所が設置され、リビングの中央には木製のテーブルが置いてある。
ひと昔前の日本に多かった様式のその空間は、勝手口からうっすら差し込む鈍い夕日のせいで余計にも古ぼけて見えた。
「そういやお前さん、火車はどうしたんだ」
テーブルに備えられた椅子の一つにドカッと腰を据えながら問えば、鞄を床に置いた深雪が、椅子に掛けてあったエプロンに袖を通しながら言う。
「アケビなら今いないわ。なんか調べたいことがあるとかなんとかで、数日前からどっかに行ってる」
「そんな放任主義で大丈夫なのかよ」
「大丈夫よ、私はアケビのこと信じてるし」
さらりと言ってのけて、深雪は前に向き直る。
信じているという言葉がどこか面白くなくて、ロクロウは小さく鼻を鳴らした。
「一応お客さんということで、茶菓子くらい出してあげるわ」
戸棚から何かを取り出した深雪が、ポットから急須にお湯を注ぐ。ものの数分で良い香りがリビングに充満する。
「はい、これ食べて待ってなさいよ」
満春まだ帰って来ないし、と深雪がロクロウの前に何かを置いた。
椅子の背もたれに肘をついたまま見れば、見たこともない丸い焼き菓子と、ほうじ茶が置いてある。
「……茶はわかるが、横の白いのはなんだ」
「ブールドネージュよ? 知らないの?」
驚いたと言わんばかりに目を丸くする深雪に、少しばかりムッとしてしまう。
「知らねぇも何も、あいにく夏越家はばあさんが和菓子派なもんでな」
洋菓子は滅多にお目にかからねぇぜと言ってやれば、「ふーん」とどうでもよさそうな反応を返される。
「簡単に言えばクッキーよ。甘いもの嫌い?」
「別に。好きも嫌いもねぇな」
白い塊を一粒摘まんで、口の中に放り込む。ザラリとした舌ざわりの後から、甘ったるい風味と香りが口に広がる。丸い見た目とは裏腹に、思ったよりもサックリした触感だと頭の片隅で考える。
「蓮夜が好きそうだな、これ」
何気なしに口から零せば、台所に立って夕飯の支度をしていた深雪が振り返る。
「なんだかんだ言って、あんたって蓮夜一番よね」
「っは、抜かせ」
何を言い出すんだと手をひらひらと振って否定すれば、深雪がシンクにもたれかかるように体勢を変えて続ける。
「そういうあんたが好きなものって、何なのよ」
「好きなものだぁ?」
「好きなものくらいあったでしょ、生きてた時に。食べ物とか」
その問いかけに……ロクロウの頭の中で、何かが思い出されそうになる。
思わず、眉間に皺を寄せ、目を逸らす。
「……さぁな」
意識がそちらに向かないように、なるべく素っ気なく返事をした。
「死んだ時に忘れたよ、そんなもん」
嘘は、言っていない。
確かに昨年の夏……それこそ、敵の策略によって生前の記憶を取り戻しはしたが、厳密には
いまだに六朗であった時の記憶には、明確になっていない部分もある。
では、それを全て思い出す必要があるかと問われれば――不要だとロクロウは思うのだ。
あの頃を共有する人間なんか、もうこの世のどこにもいないのだから。
「………そっか、そうよね」
ロクロウが黙り込んだせいか、深雪もそれ以上追撃せずに再び背を向けて夕飯の支度をし始めた。
しんと静まり返った台所に、深雪の使う包丁の音だけが響く。
どこか寂しそうにも見えるその背中を見ながら、ロクロウは目の前の白い菓子を確実に消費していく。口の中が甘くなりすぎる前に、ほうじ茶を流し込んでそれを中和させるというような食べ方をしていれば、白い菓子は残り数粒になった。
「…………」
温くなりつつあるほうじ茶を啜りながら、再び深雪の背に視線を移す。
こうして何かをしているその姿は、確かにロクロウから見ても人間のそれに見える。
むしろ、
「……いつも、」
「え?」
「お前さんがそうやって、飯作ってんのか」
包丁の音をさせたまま、深雪は振り返らない。
目線は、まな板に落ちたままだった。
「そうね……昔はおじいちゃんも一緒にやってくれて、それこそ三人で交代って感じだったかなぁ。けど今では、おじいちゃんはもう離れで寝たきりだし、私は部活で帰りが遅い日が多くて、満春がメインになっちゃってるかも」
包丁の音が、止まった。
「でも……それで、いいのよ。本当はそうなってるはずなんだもん」
「…………」
「もう私がいなくても、満春は……」
その言葉を遮るように、ガタリと音をさせてロクロウは椅子から立ち上がった。
驚いた深雪がハッとした顔で、振り返る。
他人様の家だろうと構いやしない。
つかつかと台所に立つ深雪の横まで歩み寄り、その口に先刻出された白いクッキーを思い切り捻じ込んだ。
「んん⁉」
何するんだと言わんばかりに、深雪が口をもごもごさせながら抗議の目を向ける。
見上げたその瞳は、どこか少し揺らいでいた。
「それ以上言うなよ」
「……⁉」
「お前さんの言葉は
揺らいだ瞳が、驚いたように丸くなった。
ようやくクッキーを飲み込んだ口が、ゆっくりと開かれる。
「……あんた、本当に悪霊なの?」
漏れた声は、震えていた。
「……優しくなったよね、なんか」
少しばかり切なそうに目を細めて、深雪が小さく笑った。
その表情を見た時、なぜだかロクロウの胸にチクリと棘が刺さったような感覚が走った。
いつだったか……遠い記憶の中、雪の降る中で、同じように微笑んだ人を……知っている。
花が咲いたように、綺麗に笑う彼女を……ふと、思い出した。
「……ロクロウ?」
どうかしたのかと、深雪が見上げる。
その頭に手を伸ばした。
「……なんでもねぇよ」
くしゃしゃと、柔らかい髪の毛を掻き回すように強く撫でれば、「もーやめなさいよ!」と普段のテンションに戻った深雪が腕の下から逃れ、どこか楽しそうに笑う。
「満春もまだ帰ってこないし、あんたも夕飯の支度手伝いなさいよ」
「なんで俺様が」
「切るの、得意でしょ?」
言いながら、棚の下からひと玉の南瓜を取り出して、「これ、切るの大変なのよ」と肩をすくめて、また笑った。