時計は、いつの間にか十八時半を指していた。
外は暗くなりつつあるのに、肝心の満春はまだ戻ってこない。
「遅いなぁ、満春。何してるのかしら」
すっかり出来上がった夕食達は、揃って鍋の中で大人しくしていた。皿に移しさえすればすぐに食べられるであろう状態だが、満春が戻らないゆえにその姿をお披露目できずにいる。
「遅くなっちゃうから、先に離れのおじいちゃんに夕飯出して来ようかな」
深雪がため息交じりにそう呟いた時、ふいに何かの気配をロクロウは感じ取った。
座ったまま、扉の向こう側――玄関の方角へ顔を向ける。
すりガラスから透けて見える廊下は、日が暮れたこともあって闇一色だ。
「……おい」
「何?」
料理を温め直そうとしていた深雪が振り返る。
「この家には今、寝たきりのじいさんしかいねぇんだったか」
「私とあんた以外だとそうだけど……それがどうしたの?」
深雪の声に、微かに不安の色が出る。
「……集中してみな」
ロクロウが廊下に目を向けたまま静かに言えば、その言葉に誘われるようにして深雪がすっと目を閉じる。
眉間に皺を寄せて、ほんのひと時黙り込んだ。
「――あ、」
やがて、小さな声を漏らして深雪が目を開く。
「……え、何?」
何かが、来る。
ポツリと、そう彼女の口から零れた瞬間――
――トントン。
廊下の向こう……玄関の戸を叩く音が、聞こえてくる。
「誰か……来た」
満春じゃないわ、と深雪は廊下へ続く扉を開け、その先の玄関へゆっくり足を向ける。
ロクロウも無言で椅子から立ち上がり、玄関へ向かう深雪の背後についた。
玄関につけば、すりガラスの向こう……引き戸式の戸に人影が映っている。
「……あの、どちら様ですか?」
静かに問いかけた深雪の声に、向こう側の影は何も言わない。
――トントン。
戸を叩く音だけが、不気味に響きわたる。
「何……なんなの?」
すりガラスの向こう側の影をよく見れば、その姿はどこか異質だった。
おおよそ男性のような体格で、頭には笠を被っている。
雨なんか降っていなければ、現代で普段使いする人間がいるかどうかも怪しいそれに、和服のようなものを着ているように見える人影は、どことなく現実感がない。
まるで、突如浮かび上がってきたかのような違和感がある。
だが、この感覚に――ロクロウはどこか覚えがあった。
「……なるほどな」
前方に立つ深雪の肩を掴む。
驚いて振り返ろうとした深雪には目もくれず、そのまま背後へ庇うように後ろへ追いやった。
「厄介なのが来やがったな」
「ロクロウ、あんたあれが何かわかるの?」
向こう側の影に聞こえないようにするためか、深雪が小さめの声で問いかけてくる。
「なにかは、わからねぇ。だが
――トントン、トントン。
「怨代地蔵にいるとたまに感じる……魂まで響くような重たい怨念……それと似たようなもんを持ってやがる」
「わかりやすく言ってよ」
「つまり、だ。今向こう側にいる輩は、魂に直接干渉してくるタイプの妖だ。玄関から来るってことは、標的に自らと対面する事を強要しようとしてやがる。大方姿見ただけで呪われたり死んだりするんだろ」
「え⁉」
大きな声を出した深雪が、慌てて口を押さえた。
それに反応したかのように、戸を叩く音が、一瞬止む。
しんと静まり返った玄関の空気が、緊張した――、
次の瞬間。
――ドンドン‼
さっきとはくらべものにならない程の大きな音で、戸が叩かれる。
空気を震わすような衝撃は、深雪とロクロウの鼓膜を不快に揺さぶった。
びくりと体を震わせた深雪が、「なんなのよ……!」と耳を塞ぐようにしてロクロウの後ろに隠れる。
前を見据えたロクロウは、その音の主をただジッと観察していた。
確かに戸を叩いているはずだが、影自体は動いていない。
(念でこの事象を起こしているとすれば、かなり根に持つタイプだな)
身に覚えがあるこの感覚。
心の奥から湧き上がる怨念が暴走し、呪い殺そうとする負の感情が怨念となって相手に飛ぶ――それに近い気配が、今この玄関の向こうから漏れ出してきている。
怨代地蔵にやってくる人間に、稀に憑りついている――怨霊に近い
「こいつは恐らく、こうやって人家に出没しては、人間の魂を食って回ってる妖だな」
「じゃあこの家に来たのは……おじいちゃんを狙って?」
「お前さんのじいさんは、歩けねぇな?」
「うん、自分ではもう歩けない……」
「ならじいさんが今離れからこっちに来る心配ねぇな。それに、仮にじいさんを標的にしたとすりゃ、ここじゃなくてそもそも離れの方へ行くだろうぜ」
背後から玄関を覗き込むように話す深雪を構いつつも、ロクロウはその視線を玄関からは外さない。
「でも……じゃあなんで? この家には今、人間はいないのに」
「お前さんがいるだろ」
「私? でも私は……」
「さっきの口裂け女もそうだっただろ。お前さんのその生きてるように見せる術は、それほどのもんってことだ。あっち側からしたらうまそうな魂の匂いだけを辿って家々を回ってんだろうからな」
たとえ死んでいても、肉体の中に納まっているかそうじゃないかの違というだけで、深雪の魂自体は今ここに在る。
むしろ、肉体という器がない今の状況は、裏を返せば魂が剝き出しになっていると言っても過言ではない。
狙いやすいか、とロクロウは頭の片隅で考える。
その間にも、戸を叩く音はどんどん大きくなっていた。
「でも魂って言うんなら、あんただって……」
「厳密には、ちと違うんだろうぜ」
首を鳴らして、続ける。
「俺様はこっち側で長く存在している。ゆえに存在の定義が、もはや普通の幽霊とは少し訳が違う。余程のバカじゃねぇ限り、そう簡単に食えるとは思わねぇだろうぜ」
なんと言っても怨代地蔵付きだからなと、あえて含みを持たせて言ってやれば、納得したのか、深雪が黙り込んだ。無意識なのか、珍しくもロクロウのスーツの裾を握りしめてくる。
「まぁある意味で、戸の向こう側のあいつはお前さんの術にハマってんだ」
「…………」
「お前さんに生きた人間に近い何かを感じてんだろうぜ。ひょっとすりゃ、お前さんが死んでるって事に、今の時点だと気づいてすらいねぇかもな」
「……仮にそうだったとして、じゃあどうするべきなの」
深雪がそう言った途端、ドンドンと空気を揺さぶっていた音が……ピタリと止んだ。
同時に、それまで微動だにしなかった影が、ぬっと動き出す。
体を象った影から腕のようなシルエットが浮かびあがり、それが徐に引き戸の取っ手部分と重なった。
ガタッと一度戸が揺れ、ガラガラと引き戸がこじ開けられる。
開いたその隙間から、黒い着物を着た男……頭に笠を被った
――瞬間。
ロクロウは迷う事なく刀を取り出すと、屋内であるにも関わらず素早く抜刀し、その切っ先を戸の隙間へと突き刺した。
突然の出来事に、ロクロウのそばに居た深雪が小さく悲鳴を上げる。
だが、肝心の笠の男はぎゃあとも声を上げない。
笠の影から覗いた目が、下手人のロクロウを見る。
ニヤッと、その目元が歪んだ直後――闇に散るようにスッと男の姿は消えた。
先程まで張りつめていた玄関の空気が、一気に解ける。
「……くそが、ギリギリの所で身を引きやがった」
舌打ちをしながら、刀を鞘に納めて目の前の引き戸を一気に開け放つ。
だが、ガラガラと開かれたその先には……既に誰もいない。
無音の夜が、ただそこに広がっている。
「あの男……一体どこ行ったの?」
深雪の声を背に聴きながら、ロクロウは戸の外へ出た。
星の見えない夜空を見上げれば、分厚い雲が覆い隠す向こう側で、月が弱く光っているのを感じる。
「…………」
ふいに、ザザッと木々が鳴いた。
弱く吹き抜ける風の中に紛れた
「あの野郎……俺様を通して、蓮夜の存在に気がつきやがった」
「え⁉ 蓮夜って家にひとりなんじゃないの⁉」
肯定する代わりに舌打ちをする。
今、さっきの男が夏越家に行けば、百発百中で蓮夜が玄関で対面することになる。
普段の蓮夜なら咄嗟にどうにか回避できるかもしれないが、運の悪いことに彼は今体調を崩している。
それこそ……魂も肉体も弱った蓮夜は、怪異からすれば極上の食事であるのは間違いない。
「――クソ!」
あの笠の男は、ロクロウと対峙したほんの一瞬で、蓮夜の存在を盗み取った。
契約している以上、繋がっている人間が特定されるという事は、ない話ではない。
だが……ロクロウからすれば、自分の落ち度で蓮夜が命の危機にさらされるのはどうにも面白くなかった。
「深雪、お前さんはここにいろ」
手にしていた日本刀を消して、そのまま飛び去ろうとすれば、寸でのところで深雪の手がロクロウの腕を捉えた。
「待ちなさいよ!」
グイっと引いた手に、苛立ちを含んだ目で深雪を睨めば、不安に揺らいだ彼女の瞳もまたロクロウを見ていた。
「私も連れて行きなさい」
「あ?」
「お願い、悪いようにはならないから」
「…………」
腕を捕まえた手に、決意を感じた。
「……足引っ張んなよ」
力強く頷いた深雪の体を素早く抱き上げると、そのまま地面を蹴って宙へと飛び上がった。