目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第六幕 正体

「ロクロウ……遅いなぁ」

 自室のベッドで横になったまま、暗くなりつつある窓の外を見て蓮夜は独り言ちた。

 学校が終わる時間を見計らって出ていったはずのロクロウが、世間で言う夕飯時になっても帰ってこない。

(満春ちゃん、見つからなかったのかな……)

 万一入れ違いになったとしてもロクロウのことだ、さっさと帰ってきそうなものである。ひょっとして、また何か面倒ごとに首を突っ込んでいるのではないだろうか……そう頭の片隅で思ったと同時に、ぐぅっと自身の腹が情けない音を立てた。食欲はないが、空腹感は確かにある。こんなことなら祖母に何か作り置きして貰えばよかったと、断った数時間前の自分を呪った。あの時は、こんなに体が怠くなると思っていなくて、自分でどうにか出来るだろうと断ってしまった。馬鹿だったと思う。

「ロクロウー……早く帰って来いよ……」

 枕に顔を圧し付けるようにして呟けば、ふいに階下で何か物音が聞こえた気がした。

「……ん?」

 思わず体を起こし、耳を澄ます。


 ――トントン。


 それは、玄関の戸を叩くような音。

「……誰か来た?」

 こんな時に限って、お客さんだろうか。

 蓮夜はゆっくりとベットから体を起こし、床に足をついて立ち上がった。熱のせいで視界はグニャグニャと歪み、平衡感覚が定まらない。

 壁伝いに部屋を出て、踏み外さないように階段を一段一段降りて玄関を目指す。


 ――トントン。


 その間にも、一定の間隔でずっと戸を叩かれ続けていた。

 もしもお客さんだったとしたら、急がないと帰ってしまうかもしれない。その焦りを胸に、なるべく急いで玄関へ向かえば、戸の向こう……すりガラスには確かに人影が写り込んでいた。

「あの、どちら様でしょうか? すみません、今日ばあちゃ……祖母は出張で不在なんです。今は僕しかいないので、急ぎでなければ後日来ていただいた方が――」


 ――トントン。


「あの……」


 ――トントン。


「…………」


 ふと、蓮夜は思った。

 よく見ればすりガラスの向こう側の人影……恐らく三度笠のようなものを被っている。

(この御時世に?)

 雨が降っているならまだしも、今日は違う。

 笠を被るシチュエーションが揃っているわけでもない。

 だというのにその人影は、笠を被り、着物のような物を着ているように見える。


 ――トントン。


「あの……どちら様ですか?」


 ――トントン。


「答えないと開けられません」


 ――トントン。


「…………」

 ふいに、サネミの姿が頭に浮かんだ。

 彼も、この御時世にも関わらず軍服を着ている。

 そしてそれは……彼が、生きている人間ではないからで――。


「――っ!」


 そのが頭によぎった刹那。

 ……ガチャリ。

 施錠されていたはずのそれが解除された音が響いた。

 あ、と思った時にはもう遅い。

 胸の奥がぐっと締め付けられるように苦しくなって、思わずその場に膝を折った。

 ガラリと戸が開かれ、その隙間から侵入しようとしてくるそれを拒絶するかのように、意志とは裏腹に手が震え出した。

 嫌な気配が空間に染み出してくる。

 人影がぬらりと揺らめき、その脚が、戸の隙間に刺し込まれた。

(これは……生気を、吸われてる……ッ)

 魂に直に響くような気落ち悪さに、酷い吐き気を覚える。

 なぜか、目の前のその姿を目に映すのが怖いと思い、下に向けた視界の隅に……何者かの脚が近づいて来る。

「…………ッ」

 この怪異は、一体何なのか。怪異であることは間違いないはずだが、その正体がわからない。

 正体を知らなければ、対処の方法すらわからない。

(正体を、探らなくちゃ……っ)

 喉に込み上げてくる胃液を必死で抑えつつ、顔を下に向けたまま、意識を集中するために両目をぎゅっと閉じる。

 研ぎ澄まされていく感覚に、砂嵐のようなノイズが走る。雑音、正体を知られないように邪魔をしようとしている。

 だが、核の存在さえ掴んでしまえば、怪異の正体を暴くことは可能になる。

 どこだ、どこかにあるはず。

 そう自分自身に言い聞かせ、必死で気配の霧の中を探っていると、突然脳裏に言葉が浮かび上がって来た。

 何の意味もなさないような、聞いたことのない響き……それは――


「――おか……」


 瞬間。

 目の前の怪異が一気に間を詰めてきた気配に、下げていた顔を思わず上げようとした。

 焦点が、迫ってきた何かと合いそうになる。

 だがそれは、寸前で阻止された。

「蓮夜、駄目!」

 突如背後に沸き上がったのは、聞き覚えのある声……同時に襟首を背後から思いっきり引っ張られて、蓮夜はその場に背中を打ち付けるようにしてひっくり返った。

 ひゅっと狭まった喉が、苦しそうに鳴く。

 生理的な涙が浮かんだ目を薄っすら開けば、目の前に深雪の背中があった

「みゆ、き、さん?」

 床に仰向けに倒れた自分は、深雪の背後に庇われている……そう把握した途端、深雪の更に向こう側――さっきまで蓮夜が向かい合っていた玄関で、黒い靄のようなものがグネグネとうねっているのが見えた。

「深雪さん!」

「蓮夜は動かないで!」

 それが深雪に飛びかかって、首を締め上げた。

 ウッと、深雪の呻く声が、嫌に玄関に響く。

 助けるために立ち上がろうとするが、息苦しさと全身を襲う高熱のせいで呼吸が上手く出来ず、力が入らない。血が沸騰したかのように熱く、怠さが筋肉を硬直させる。

(どうしよう……どうすればいい)

 不甲斐なさに、目の前がじわりと滲んだ。


「馬鹿が、先走んな」


 その時、後方から馴染みのある声がしたかと思えば、声の主――ロクロウが、蓮夜を大きく飛び越えて、深雪の首を締め上げている影に大きく斬りかかった。

「二度はねぇぞ!」

 寸前でその刃に気がついた影が、グネリと動いて身を引きかわそうとする。

 だが、その襲撃を察していた深雪が、苦しい中で「お前は、離れられない」と言霊を使ったせいで、影は動けなくなる。

 次の瞬間……まるで布を切り裂くかのような音がして、影はその場で真っ二つに裂けた。

 ジュっと何かが焦げ付くような音がしたかと思えば、その影がサラサラと砂のように跡形もなく砕け、消えていった。


「はぁ……何だったのよ、あいつ」

 影に拘束されていた体が解放された深雪が、玄関に着地しつつ喉を擦る。名の指定をせずとも拘束の言霊を使えるとは、彼女の力は相当強い……正直なところ、深雪がいなければ危なかったかもしれないと蓮夜は頭の片隅で思った。

「間一髪ってところだったかしら」

 緊急事態だから、勝手口から入らせてもらったわという深雪に、横からロクロウが口を出す。

「なぁにが間一髪だよ、先走るなって言ったろうが」

 カチリと刀を鞘に納め、気だるそうに首を鳴らす。

 何がなんだかわからない蓮夜が、「今のは……」と先を促すと、ロクロウが視線を合わせるようにその場にしゃがみ込んで、続けた。

「お前さんなら大方察しているとは思うが、あれは対面した人間の命を奪おうとするタイプの怪異だ。最初にこいつの家に現れて、お前さんの所に逃げたのを追いかけて来たんだよ」

「そうよ蓮夜、もしあんたがあいつの姿を完璧に見ていたら……タダじゃすまなかったかもしれないんだから」

 そう言った深雪の手が、グッと握りしめられる。間に合ったことに安堵しているのか、今になって不安が表に出て来たのか、彼女はその手の震えを抑えようとしているようだった。

 それを見て、蓮夜の胸に言いようのない感情が込み上げてきた。

「……深雪さん、なんで僕の盾になったんだ」

「なんでって、そりゃ……私はもう死んでるけど、蓮夜は生きてるじゃない」

「でも……それでも、何があるかわからないじゃないか!」

 自分でも驚くほどに強い口調で叫んだ蓮夜を、深雪が驚いた顔で見た。

 急に大きな声を出したせいで酸素が回らなくなった頭が、高熱も相極まって朦朧とし始める。

「僕は……僕にとって深雪さんは……死んでなんかない……ちゃんと、ここにいる……」

「蓮夜……」

「死んでるからいいみたいに……言ってほしくないよ……僕にとっては大切なんだ……だから、自分を粗末に……犠牲にしようと、しない、で……」

 伝えたいと思った言葉が、濁流のように胸から溢れてきて止まらない。

 息をする間もなく言葉を紡げば、視界が一気に暗転した。

 廊下に座り込んでいた自分の体が、大きく傾くのがわかった。

「ちょっと、蓮夜!」

 深雪の悲鳴に近い声が響く。


 蓮夜の意識は、そこで途絶えた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?