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第七幕 Amazing Grace.

「蓮夜ってば!」

 床に倒れ込んだ蓮夜を、深雪が慌てて抱き起す。

「ちょっと……熱すごいじゃない! こんな状態でよく……」

 深雪の手が蓮夜の額に触れている様を、ロクロウは黙って横で見る。

 家を出る時、会話をする分にはまだ体力は大丈夫だろうと高を括っていたが、生きている人間の生命力はこうも簡単に変動するのか。

「あー……ちとやべぇな」

 蓮夜と契約で繋がっているせいか、一気に怠さが襲ってきて思わずその場に腰を下ろした。

「相当きてんな、蓮夜のやつ……おかげでこっちまで引きずられて気分が悪い」

 眉間に皺を寄せて言えば、深雪がぎょっとした顔でロクロウを見た。

「嘘、ちょっとあんたまで具合悪いの? 悪霊なのに?」

「……契約で繋がってる分、こういう面倒な部分まで共有されんだ」

「あんたがそんなになるって……蓮夜、かなりやばいってこと?」

「だからそう言ってるだろ……医者に連れて行かねぇとまずいかもな」

 話すのも怠くなったロクロウがそのまま顔を下げれば、状況のまずさに言葉を失った深雪が黙り込んだ。

 人間の医療機関事情なんか知る由もないが、もはやそんなことを考えるのが怠い程度には状態が良くない。繋がっているロクロウでこうなのだ。きっと張本人である蓮夜は今かなり酷い状態なのだろう。

 そう思った時、下げた顔の向こうで微かに歌声が聞こえた。

 つられるようにして顔を上げる。

 蓮夜を抱きかかえた深雪が、まるで子供をあやすように、ゆっくりと歌を口ずさんでいた。


「――Amazing grace how sweet the sound That saved a wretch like me~……」


 その曲は、悪霊であるロクロウですら、いつかどこかで耳にしたことがあるものだった。

 天から光が降ってくるような、何かを包み込むような曲調……そしてそれを歌う深雪の表情が、深い慈しみを抱くかのようで――。

「…………」

 聴き入った、言葉もわからないのに。

 歌なんて、悪霊である自分には縁のないものだと思っていた。

 だが今、確かにその歌は蓮夜を通して……繋がっているロクロウの魂まで届く癒しを生み出していた。深雪が言霊の能力を歌にのせたのだろう。

「ほぉ……すげぇな」

(神の恵み、か)

 歌詞の意味は拾えないはずなのに、不思議とそんな気がした。


 やがて曲を歌い終えた深雪が、蓮夜の額にそっと手を触れる。

「熱、少し下がったみたいね」

 上手くいってよかったわ、と深雪が大きく息を吐いた。

「……歌に、言霊使ったのか」

 座ったまま、廊下の壁に背中を預けてロクロウが問えば、深雪が視線を寄こして頷いた。

「うん。上手くいくか自信なかったけど。アメイジンググレイスって神聖な曲だから、こういう旋律に祈りを込めて言葉を紡げば、多分少しは命を守れるんじゃないかなって思ったの」

 言いながら、蓮夜の額に汗で張り付いた前髪を、深雪がそっと横に流す。

 伏せられた瞳は、まるで聖母のように柔らかい微笑みを携えていた。

「……お前さんは、きっと天国だな」

「え? 何か言った?」

 きょとんとした深雪が顔を上げる。

「……なんでもねぇよ」

 二度は言ってやらねぇよと、そう思った。


     ***


 あの出来事から数日たった土曜日の朝。

 蓮夜の体調もすっかり回復し、普段通りの生活を送っていた。

「おい、またぶり返してもらっちゃ困るぞ」

 玄関で靴を履こうとしている蓮夜に、背後でロクロウが悪態をつく。とどのつまり無理するなと言いたいのだろう。段々と彼のことが分かってきた今だからこそ、それがわかる。

「大丈夫だよ、本当」

 紙袋を持って玄関を出れば、気怠そうにロクロウも蓮夜の後についてきた。


 今日は学校が休みということもあって、逢坂家に向かう。

 あの事件の後、なんやかんやとご飯を作って持ってきてくれたり、色々と世話を焼いてくれた深雪にお礼をしに行こうと思ったのだ。勿論、借りていたタッパーを返すという名目のもとでだ。

 日差しは強いが、まだ夏の暑さには及ばない。

 通り慣れた道を歩いていると、後ろを歩いていたロクロウがふいに蓮夜の横に並んだ。

 なんだろうと見上げると、ロクロウもまた、蓮夜を見下ろしていた。

「お前さん、あの怪異が何か……見当はついてたのかよ」

 気怠そうな目が、問いかける。

「……うん、これじゃないかなって名前には辿り着いてたんだ」

「ほぉ、あの一瞬でか」

「うん。普段からロクロウが、集中集中ってうるさく言ってるのが、役に立ったかも」

 ニッと口の端を上げて見せれば、ロクロウが眉を寄せる。

「……おかむろ、そういう名前の怪異だった」

 あの時のことを思い起こす。

 集中した最中、ノイズに交じって浮かんできた名前は――おかむろという名前だった。

「一応あの後調べたんだよ。おかむろっていう妖怪は、ロクロウが言ってた通り、家から家を渡り歩いて、対面した人間の命を取って食べてしまう怪異だった。名前を呼べば危機を回避できた……的なことが書いてあったけど、あの時は正直余裕がなかった。だから深雪さんとロクロウが駆けつけてくれなかったら、僕は今頃死んでいたかもしれない」

「……お前さんの家の結界を簡単に跨いできたってことは、件の吹き溜まりってやつの影響もあんのかもな」

「……そう思う?」

 ロクロウが考察を述べたことが意外で、一瞬間を取ってしまう。

「あの吹き溜まりってやつのせいで、今ではめっきり聞かなくなった都市伝説だとか、怪奇現象だとか、そういうのが突然力を増して復活してるらしいぜ。それの原因は、一説では去年の七獄の年……閻魔の目が開けた地獄の穴の残穢だって言われてるみてぇだな」

「ロクロウ、調べてくれたのか?」

 驚いたと言えば、ロクロウは少し嫌そうな顔をした。

「深雪と……あとは人の面した汚ねぇ犬の受け売りだがよ」

「汚い、犬?」

「あー……まぁ気にすんな、そこは。まぁ、いずれにせよ、おかむろって妖怪がお前さんの家に侵入出来たのは、吹き溜まりの力を得て強力になっていたかもしれねぇ……その可能性は高ぇと思うぜ」


 そうこう話しているうちに、逢坂家の門が見えて来た。

 今日深雪はバンド活動がないはずで、家に居ると言っていた。

 迷わず呼び鈴を押せば、数秒後にインターホンから「はい、逢坂ですけど」と深雪の声が染み出してくる。

「あ、深雪さん。僕です、夏越です」

 名乗れば、「ああ、ちょっと待ってなさい」と言ってプツリとインターホンの接続が切れる。そのまま門の外で待っていれば、数分もしないうちに深雪が玄関の扉から姿を現した。

「これ、この前のタッパーです。あと、つまらないものなんですけど、一応お礼のお菓子です」

 白の半袖シャツに短パンをはいた深雪は、エプロンを着用していた。なにか家事の最中だったのかもしれない。

「わざわざよかったのに、ありがとうね。気を使ってくれて」

「いえ、こちらこそ。本当に助かりました」

 紙袋を手渡せば、受け取った深雪が、ちらりと横のロクロウを見上げた。

 だが、深雪は何も言わない。

 ロクロウも、深雪の言葉を待っているかのように何も言わなかった。

 風が、サッと玄関に吹き抜ける。


 暫くして、先に口を開いたのは、深雪の方だった。


「……あんたの言う通り、自分を追い込まないようにするわ」

 私の存在を、望んでくれてる人もいるみたいだし。

 そういった深雪が、目元を緩める。

「――ああ、そうしな」

 ロクロウは珍しく、追及をしなかった。

 その代わり、少しばかり口角を上げる。

(…………?)

 二人の間に何があったのかはわからない。

 ただ、深雪の価値観が少し変わったのだろうという確信はあった。

(二人とも、少し……仲良くなったみたいだ)

 深雪とロクロウが、二人揃って助けに来てくれたことを思い起こす。

 七獄の年のこともあって、深雪はどこかロクロウに対して一線を引いているような気がしていたが、それはいらぬ心配だったかもしれない。


(よかったなぁ)


 蓮夜は二人に気づかれないように、小さく胸を撫で下ろしたのだった。


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