四月三十日。
学生にとっては夏休みの前座ともいえるゴールデンウィーク。その最中の校舎に生徒の姿は少ない。文化部の生徒がたまに廊下を歩いて行く程度で、校内はどこか閑散としている。
「うん、こんなもんかな」
校舎の一階中央にある中庭で、満春はゆっくり立ち上がった。
手に持った如雨露の先からぽたぽたと水が落ちて、地面に染みを作る。
一年の時に何気なしに花壇の花に水をやるようになり、二年になった今でも率先して水やりをするのが日満春の密かな課となっていた。きっとゴールデンウィークは用務員以外に水をやる人はいないだろう。少しでも手伝えればと自主的に登校してみれば、やはり用務員一人で全ての花に水をやるのは中々大変なようだった。その証拠に、通りがかった用務員の男性に「ありがとう、ここの水やりは任せるね」と頭を下げられる始末だ。
「さて、次は……」
中庭の隅にある洗い場に如雨露を戻して、時間を確認する。そろそろ用務員のおじさんが飼育小屋の兎に餌をやる時間だと思えば、後方から聞き覚えのある声で名を呼ばれた。
「あれ? 満春? 帰ったんじゃなかったの?」
振り返れば、同じクラスの友人だった。丁度図書室から戻って来たところなのか、手には数冊の本が握られている。
「私? ううん、むしろさっき来たばっかりだよ。花壇の花に水やりしてたの」
事実を言えば、友人は「えー? おっかしいなぁ」と納得いかないような反応をする。
「図書室から出て下駄箱の前を通って来たんだけど、ちょうど靴を履き替えて玄関を出ていく満春を見たんだよねぇ。おーいって声かけたんだけどそのまま気がつかないで行っちゃった……ひょっとして人違いだったかな?」
だとしたら私恥ずかしい奴じゃん、と友人は顔を少し赤らめる。本を小脇に抱え直して空いた手でパタパタと火照った頬を扇ぐ。
「そうかもしれないね、私ずっとここにいたから……」
どことなく胸騒を覚えつつもそう答えれば、友人も「そりゃそうだよね」とようやく納得したように頷いた。
「水やりするためにわざわざ登校してきたの? 満春は優等生だね」
「優等生じゃないよ。なんとなく、お花のこと気になっちゃって」
「そっか。でもせっかくのゴールデンウィークなんだしさ、ちゃんと楽しいこともしないと駄目だよ」
大人になったら、長期休暇なんか貴重なものになっちゃうんだからね。
そう言った友人が、手を振って教室等の方へ消えていくのを、満春は暫くその場に立ち尽くして眺めていた。
「…………」
なんとなく、今しがた友人が言ったことが気になっていた。
(廊下と靴箱って、そんなに距離ないよね……玄関へ向かうのに背中を向けていたとしても、見間違えることってあるのかな)
中庭を突っ切って、そのままの脚で玄関の方へ回る。外から靴箱とその奥の廊下を眺めるが、やはり見間違える程の距離があるとは思えなかった。
思えないが、この心のざわつきを、理由を付けてでも納めてしまいたい自分がいた。
「……制服着てたら、間違える事もあるかもしれないよね」
言い聞かせるようにして、玄関を出る。
と、そこへ「逢坂さん!」と慌てるような声が飛び込んで来た。
今度は何事だと声のする方へ視線を向ければ、校庭の方から用務員の男性が息を切らせながら走ってくる。
「ど、どうされたんですか……⁉」
尋常じゃない量の汗をかいた男性に問えば、彼は首から垂らしたタオルで顔を拭いつつ、まだ落ち着かない呼吸の合間でようやく言葉を紡いだ。
「驚かせてすまないね、その……飼育小屋の兎が……全て死んでしまっているようなんだ」
「……え⁉」
驚きのあまり、声がひっくり返る。冗談ですよねと言えば、用務員の男性は弱々しく首を横に振って、満春を飼育小屋の方へと案内する。
校庭の隅に設置されている飼育小屋には、兎が五匹ほど飼われていた。満春が入学した時にはもう既に飼われていて、前に深雪が「私達が入学した時に今の兎になったんじゃなかったかしら。その前は鶏だったって聞いたけど」と言っていたことを思い出す。花に水やりをするようになって、たまに飼育小屋の兎に餌をあげさせて貰っているんだと話した時、その事実をたまたま耳にしていた。
「死因は……なんなんですか?」
小屋の中の兎は、皆ぐったりと横たわり動かなくなっていた。
深雪の話が確かならば、三年ほど前にここに来たことになる。寿命を全うしたと言うには、どうにも死期が速すぎる気がしてしまう。
「それが……外傷は全く見られないんだ。野犬にでも襲われたかと思ったんだが、小屋の鍵はしっかりと閉まっていた」
「何か病気だったとか……?」
「いや……感染病に罹ってしまえば生徒に危険が及ぶから、定期的に獣医さんに見せてはいたんだよ。この前の検診でも特に異常はなかったはずなんだが……」
「…………」
思わず、横たわった兎たちを凝視してしまう。
とどのつまり原因不明、突然死だという事か。
なんと言葉を紡げば良いかわからず、つい口を閉ざしてしまう。緑の匂いを濃く含んだ五月の風が、満春の髪を揺らしていく。
木々のザザァという騒めきが、空間に巣くった無音に轟いた。
「すまないね、逢坂さん。君には最近、特に可愛がってもらっていたから……」
残念で仕方がないよ。
そう言って首を垂れる男性は、悔しそうにタオルで目を覆った。泣いているのかもしれない。彼はいつも、たった一人でこの高校の生き物の世話をしてくれていたのだ。満春が水やりや餌やりの手伝いをするようになったのはそれこそ最近で、それまではずっと一人で請け負っていた。悲しくないはずがない。
「……いいえ、私は大丈夫です。でも、寂しいです」
横たわった兎は、すっかり寝てしまった毛並みこそまだ柔らかそうではあるが、身体はきっともう冷たく……硬くなってしまっているのだろう。それはきっと、動物でも人間でも変わりはなくて、だとすれば姉の深雪も――、
「――……」
そんなことを頭の片隅で考えた自分に気が付いて、満春は思わず首を横に振った。
死について考えたその先に、姉である深雪の姿を見た気がしたのだ。
(なんで、お姉ちゃんのこと……)
心では問いかけるも、本心では気づいていた。
姉の深雪は、もう死んでいる。
だがその死に際も、死に様も、満春は知らない。
知らないからこそ、一瞬でもそれを想像しそうになった自分が嫌だった。
兎の死に、引っ張られてはいけないと……深く息を吸った。
「本当にすまないね」
「いえ……」
「ゴールデンウィークが開けたら、また何か動物を手配しないとだね」
残念そうに言ったその言葉は、満春の耳に暫く残っていた。