蓮夜達の高校から一駅程離れた山の奥へ、サネミに連れられ、蓮夜と満春は足を踏み入れた。雑木林を抜けた先に、ぽつりと一つの池が現れる。畔まで歩み寄ったサネミが池を覗き込むように辺りを見渡し、それから一呼吸置いて大きく呼びかけた。
「おーい、コシズ! 相談があるんですが!」
サネミの声が反響し、共鳴するかのように風が木々を揺らす。
とぷん、と水が動く音がして、何かが水中を移動してくる気配を感じた瞬間、ザバッと目の前の水が膨れ上がって美しい女性が水面に顔を出した。
「はーい、サネミ。ご無沙汰じゃない?」
緩くウェーブのかかった黒髪は、光の加減で青にも見える不思議な色だ。水面から出た肩には衣服は見られず、少し後方の水面からは虹色に光彩を放つ尾鰭が見え隠れしている。
「え、人魚……⁉」
思わず声に出た蓮夜が慌てて口を覆えば、人魚――コシズは気にする素振りすら見せず「そうでーす! 天下の人魚姫様でーす!」とピースサインを向けて来る。
「彼女はコシズです。人魚という存在はご存知でしょうね、かなり有名な妖怪ですから」
「ご紹介ありがとうね~サネミ。でも貴方が訪ねて来たってことは、私に何か聞きたいことがあるんじゃないのかしら? 可愛い子連れて来てくれないと、話は聞かないわよ」
「そういうのはわかっていましたので、ちゃんと同行頂いてます」
サネミがちらりと振り向けば、蓮夜の背後に隠れるようにして事の成り行きを見守っていた満春が少しばかり前に出る。
その姿を視界にとらえたコシズの表情が、パッと花が咲くように明るくなった。
「きゃー! 可愛いじゃない! え、おいくつなのかしら?」
「えっと、十六です」
「いいわねいいわね! まだまだ新鮮じゃない!」
独特な言い回しをするコシズに対して、どう反応すればいいのか困った満春が蓮夜を見る。
確かに思い描いていた人魚姫の像よりは、彼女は遥かに活発だった。
なんというか、よく喋る。
「それで? お嬢ちゃん、お名前は?」
「逢坂満春です」
「満春ちゃんね、覚えたわ! ちょっとこっち来て!」
水面から出した白い手を上下にひらひらと動かして満春を呼ぶ。満春は一瞬迷ったように固まったが、彼女に危険性はなさそうだと判断したのか、ゆっくりと近くまで歩み寄った。
「早速なんだけど、私の尾鰭撫でてくれない?」
「え、」
ザバリと満春の目の前にコシズの尾鰭が現れる。目をぱちくりさせた満春が、何を言えばいいか口をはくはくと動かす。思考が追い付いていなさそうな満春の様子に、見兼ねた蓮夜はそばに近寄って助け船を出すことにした。
「あの、コシズさん。その行動には一体何の意味が?」
「お、君はこの子の彼氏君?」
斜め右方向に展開された質問に、思わず首をぶんぶんと強く振って否定する。「なんだ、違うの~」と言うコシズを見ながら、蓮夜は一度ゴホンと咳ばらいをして続けた。
「申し遅れましたけど、僕は夏越蓮夜と言います。満春ちゃんとは同級生で……」
「ああ、君が噂の夏越家?」
意味深に頷きながら、コシズは続ける。
「君が女の子だったら触って欲しいけど、男の子だから駄目ね」
「……と、言うと?」
「私ってば、すっごく長生きな妖怪なんだけどね、この美貌を保つには定期的に可愛い女の子に足を撫でてもらわないとダメなの。上手く説明出来ないけど、若くて可愛い子のエネルギーを分けてもらうイメージって言えばなんとなく伝わる?」
言われた言葉に、なんとなく出会った頃のロクロウを思い出した。彼も彼で、自由に行動するために人間を襲っていた。形は違えど、つまりは同じ事なのだろう。
「という事で、ちょっとでいいから撫でて欲しいなぁ」
お願いと手を合わせるコシズに、満春は一瞬サネミと蓮夜の方を見るも、意を決したのか、小さく頷いて白い指先を尾鰭にそっとあてがった。
すりすりと数回撫でると、コシズが嬉しそうに笑う。
「ああ~いい感じよ! 生き返るわ~ ありがとうね!」
物の一分くらいだっただろうか。満春の手元から尾鰭を水中に戻したコシズが、その場でグーっと伸びをした。水面から肩よりも下が見える。一瞬、上半身が真っ裸だったらどうしようかと、要らぬ心配が脳裏をかすめたが、水面からちらりと見えた胸元にはしっかりと布地が巻かれていた。
残念なような、安心したような、何とも言えない気持ちになった自分が少々腹立たしい。
邪念を消す様に首を左右に振って、再度コシズに向き直る。
「でも、こんな山奥だったら可愛い女の子どころか、人なんか滅多に来ない……ですよね? エネルギー切れとかになったらどうするんですか?」
問えば、コシズは「ふふ」と何処か意味ありげに笑って、
「妖もベテランになってくるとね、結構自分の体って自由にできたりするの。だからほら、」
ザバリと池の淵に手をかけて、自ら陸へと乗り上げたではないか。上半身はともかく下半身はまずいことになっているのではないかと、これまた心配した刹那、コシズの尾鰭はみるみる内に足へと変わり、瞬く間に腰布を巻いた状態で
くるりと、その場で一回転して見せる。
「エネルギーに余裕あれば人間に変化できちゃうから、元気がなくなる前に人里に行って足をマッサージしてもらうのよ! エステって言うんだっけ? 現代の女性は、皆煌びやかで可愛い子が多いわよね~」
「なるほど……僕と契約する前のロクロウと同じか」
思わず思ったことが口をついて出る。
「そういえば君、怨代地蔵の付きの悪霊のパートナーなんですってね?」
ロクロウだっけ? と髪の毛を後ろに流しながらコシズが言う。ぽたぽたと毛先から水が地面へと落ちて染みを作った。
「七獄の年を乗り越えた夏越の跡取り……悪霊の方も地獄から現世へ戻って来たとは水の噂で聞いてたけど、やっぱりまた君と契約したのね」
「水の噂……」
「あら、変な部分気になるのね? 私は水がテリトリーだからね。風の噂って言うなら、どちらかと言うとサネミの方じゃない?」
ねぇ? と話を振られたサネミが「ふむ、どうですかな」と困ったように肩をすくめた。
「でもびっくりだな。人魚って海に住んでいる妖怪だとばかり思ってました」
「そうね。百年くらい前までは海にいたんだけどね~。近代になって海の水も不純物が多くなっちゃってね。肌が荒れちゃうから淡水に逃げてきたのよ」
「肌荒れは女の敵ですもんね……わかります」
珍しく自ら発言した満春に、コシズが「でしょ?」と嬉しそうに頷く。
「やっぱり何千年生きても美しくありたいじゃない? 大先輩として、いつでも若々しく威厳ある妖怪でいないとね~。あ、でも蓮夜君も満春ちゃんも、敬語は使わなくていいわよ。堅苦しいのは苦手なの。フレンドリーに行きましょ?」
「え? あ、じゃあ……お言葉に甘えようかな」
なんて答えつつも、頭には、彼女は一体何歳なんだろうかという疑問が浮かんでいた。何千年という単語が出た時点で人間の理解が追い付くところではないのは確かだが、そこまで非現実的な数字を零されると逆に気になってしまう。
(駄目だ駄目だ。余計な事は今は置いとかないと……)
自らの眉間を揉むようにして俯き、一度息を深く吸って思考を切り替えた。
その蓮夜の仕草でコシズも言わんとしたことを悟ったのか、池のほとりの岩に腰を掛け、改めて蓮夜達の方を見遣った。
「まぁ話はさておき? 可愛い子連れてまでここに来たんだから、それなりの相談があるんでしょ? なんでも聞いてごらんなさいな。知ってることは答えてあげる」
「話が早くて助かりますな」
サネミが一歩前に出て続ける。
「ドッペルゲンガーのように、自分の知らない場所で自分自身が目撃されるという事が多々あった……というのを前提として聞いてほしいのですが、仮に幽体が抜け出してしまった場合、本人に何も影響がない……ということはあり得ますか?」
「あり得ないわね」きっぱりとコシズが言い切る。
「ドッペルゲンガー……俗に言う幽体剝離が発生している時、その本体は絶対に何かしら具合が悪くなる。本体に霊魂だけが残っている状態は、長く持たないわ」
「という事は、具合とかは特に悪くなっていない満春ちゃんのこれは、幽体剝離ではないってことか……どっちかというと、僕がスーパーで見かけた満春ちゃんの方が具合良くなさそうだったもんなぁ」
あの時の様子を思い浮かべてそう零せば、コシズが少しばかり眉間に皺を寄せた。
「見かけた方の満春ちゃんは……具合が悪そうだった……あ、なるほど」
閃いたと言わんばかりに手を打って続ける。
「満春ちゃん、今お財布って持ってたりする?」
「え? お財布? 持ってます、けど……」
「五円玉ある?」
「五円玉?」
突然何を言い出すのか。まさかとは思うが、何処かの神社に参拝でもして祈祷でもしようというのだろうか。
まさかとは思いつつも、コシズの考えている事がわからず、つい聞き返してしまう。
「え、コシズ……なんで突然五円玉なの?」
「いいからいいから。満春ちゃん、どう?」
催促するように右手を前に出して、ひらひらと上下に振る。そう言えば前にロクロウに小銭を寄越せと言われたことがあったっけ……と思い出す。確かテスト勉強の夜の事だ。カツアゲでもされるのかと思いきや、結局あの時はロクロウが自販機でコーヒーを買ってきてくれるための催促だった。
だけど五円玉では飲み物は買えないだろう。
となれば、一体何に使うと言うのだろうか。
「えっと……私普段から、細かい小銭は大体財布にあるようにしてます。それに、さっきスーパーでお買い物した時におつりで確か五円が来たから……」
あると思うと、財布を開けた満春が「あれ……?」と声を漏らした。それから蓮夜達に見えるように小銭入れの部分を開いて、前に出す。
「五円玉が、ない」
「え?」
慌てて満春から財布を受け取って、サネミと一緒に小銭入れの中をしっかりと覗き込む。確かに満春の言う通り各金種の硬貨が揃っているのに対し、五円玉だけがそこになかった。
「ほら、やっぱりないわね」
「……どういうことですかな?」
財布から顔を上げたサネミが問う。その声は、先ほどまでとは打って変わってやけに真剣さを孕んでいた。
「もう一つ当ててあげましょうか」
サネミの問いかけにはあえて答えず、目配せだけしてコシズが続ける。
「最近満春ちゃん、身の回りで動物が死ななかった? ペットだったり、可愛がってた近所の犬だったり……あとはそうね、学校で飼育してた動物だったり」
「え⁉」
コシズの発言に、満春が口元を手で覆った。その手がぶるぶると小さく震えだす。顔色がサッと青くなり、思わずその場で後退りをした彼女の身体を後ろからそっとサネミが支えた。「大丈夫ですかな」と声を掛けるが、満春は何も反応を示さない。
「その感じだと、当たりってところかしら?」
満春の様子とは裏腹に、至って平坦な声でコシズが言う。なぜ彼女は、動物の死という現象が満春の周りで起きたことを知っていたのだろうか。
考えれば考える程にわからなくなる現状に、気持ちがモヤモヤとしてくる。
思わず黙り込んでしまえば、満春を背後から支えるようにして立つサネミが代わりにと言わんばかりに口を開いた。
「確かに、満春さんの学校の飼育小屋にいた兎が先日急死したそうです。満春さんは飼育係というわけではありませんでしたが、ここ最近用務員の男性の手伝いで餌を与える機会もあったと言います」
そうですね? とサネミが小さな声で問いかければ、満春が小さく首肯した。
「やっぱりか。何が関係しているか、だいたいわかったわ」
「さすがですな。して、それは妖の類ですかな?」
「妖というよりは……怪人、都市伝説の類ね。でも本当……久しぶりに存在を認識したわ」
顎に手を当てて、コシズが眼差しを伏せた。何かを思い出すような仕草に、声をかけていいものかと一瞬ためらうも、蓮夜は意を決して気になっていたそれを投げかける。
「コシズはその
「そうね」
「それは……何なの?」
伏せられていた彼女の視線が上がる。
蓮夜を真っ直ぐに見据えたその瞳は、まるで沖縄の海のように綺麗に透き通って、差し込んだ木漏れ日を反射させた。
まるで全てを見透かすような、不思議な視線をしていた。
「その名は――コイトサン」
「こいと、さん?」
聞いたことのない名前に、思わず聞き返してしまう。
「それって、どういうモノなの?」
「この都市伝説は、人生に二回だけ、本人の前に現れるって言われているの。だいたいが、その本人が死ぬときの姿だって説が多いわ」
「死ぬ時?」
確かに蓮夜が目撃した満春は具合が悪そうではあった……見方によっては、死に直結する姿だったと言われても違和感はない。
(と言うことは、満春ちゃんの前に現れたのは、それか……?)
ちらりと満春を見れば、コシズの方を凝視したまま固まっていた。死と言う単語に恐怖を覚えたのか、青くなったままの顔からは更に血の気が引いたように見える。
「そしてね、コイトサンには、現れるときの前触れってのが
右手の指を三本立てて顔の前に掲げたコシズに対し、納得したようにサネミが「ああ、」と声を漏らした。
「なるほど……その内の二つが『五円玉が無くなる』と『身近な動物が死ぬ』というわけですか」
「さすがサネミ、理解が速い」
その通りよ、とコシズが続ける。
「さっき、試しに五円玉の所在を聞いてみて「無くなってる」って言ったから……ひょっとして動物もじゃないかと思ったのよね。ここまで揃えばもうコイトサンである可能性は百に近いわ」
コシズの言葉で、蓮夜の中に生まれていたモヤモヤが一気に解消していく。とどのつまり、コシズはドッペルゲンガーではない他の可能性に心当たりがあって、五円玉の条件を満春が満たしたために動物の死を言い当てられたというわけだ。
「でもコシズ、三つあるって言ったよね? 二個はわかったけど、残り一つは何なの?」
「最後の一つは、左手の薬指に針で刺されたような傷が出来る、よ」
「なんか地味に痛そうだけど……」
「幸いな事に、満春ちゃんの前にまだコイトサンは現れていないようだから、その針の傷は今はないでしょうね。けど、言い換えてみればその針の傷が出来た瞬間がカウントダウンで言うゼロに当たるってことよ」
「針の傷が出来た時が、そのコイトサンが現れる時……ってことか」
俗に言う都市伝説では、よくある話ではある。段階を踏んでいき、最後の手段に到達した瞬間に怪異が現れる……有名どころで言えばメリーさんの電話などもそうだ。かかってくる電話に出てみれば、徐々に電話の向こうの声が近づいてきて、最後の電話に出てしまった時は既に背後にいる……今回のコイトサンという怪人も、ある意味それに近い何かを感じる。
「この一連の流れは恐らく……ご縁を切られ、生贄を捧げさせられ、血で命を差し出す契約をさせられるという意味があるんでしょうね」
蓮夜の思考を読み取ったかのようなことをコシズが言えば、「血盟ですか」とサネミが小さく呟いた。それから背中を支えていた満春の左手に、背後から手を伸ばし「失敬」とその薬指を覗き込む。
「今の話からすると、そのコイトサンが満春さんを狙っている犯人で間違いなさそうですな」
「傷は、まだないでしょ?」
「ええ、まだ」
「なら本番はこの後に控えてるってことでしょうね」
確信めいた言い方をするコシズを見ながら、サネミが深く頷いた。
「さすが、長生きしているだけありますな」
「あら、でも年の割に若く見えるでしょう?」
「ええ、それはもう」
ニコニコ微笑んで言うサネミの顔を見つつ、こういうところがロクロウとは違うなぁと思った。それにしても、今の言い方だとサネミは恐らくコシズが何歳か知っているのだろう。あとで聞いてみようか……。
「して、その怪人から助かる方法というのはあるのですかな?」
「そこなのよ、問題は」
コシズの声のトーンが少し下がった。
「この都市伝説、それこそ昔は今よりずっと活動的だったけど、その時代でさえ解決策っていうのがなかった」
「え⁉」驚き、つい声が出てしまう。
「ということはつまり……出会わないように逃げ続けるしかないってこと?」
「一番確実なのはそれで間違いないわ」
「ええ……」
そんなこと、無理なのではないか。ちらりとサネミをみればサネミも少しばかり難しい顔をしていた。
「不安なのはわかる。だからこそ、その解決方法を探さないといけないわ。私も手伝ってあげるから解決方法を探しましょう」
言いながら満春に手を伸ばし、その白い手をそっと握る。
「とりあえず満春ちゃんは、自分と出会わないように細心の注意を払うことね」
「はい……」満春が不安そうな顔をして頷いた。
その表情はやはりどこか青白く、不安が滲みだしている。どうにかしてあげたい衝動に駆られるが、非力な事に今その方法を何一つ思い浮かべることが出来ない。
「大丈夫?」
顔を覗き込むように問えば、満春は辛うじて小さく頷いた。思わず手を伸ばして満春の手を握れば、彼女の瞳が蓮夜を見た。
少しだけ、彼女の眉が下がった。
「うん……出会わなければいいんだよね。とりあえずゴールデンウィークの残り数日はあまり出歩かないようにする」
「僕もこの休みの間に解決策をロクロウとサネミと話し合ってみるよ」
「それが良さそうですな」
サネミも頷く。
森を過ぎ去っていく風が、四人の姿を嘲笑うかのようにザっと音を立てた。