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第四幕 一度目

 深夜。

 ベッドに潜り込んだ満春の耳に聞こえてきたのは、何かが軋むような音だった。

「……?」

 閉じていた目をゆっくりと開いて、上体を起こす。

 音の出どころは部屋の前――廊下だ。

(何……?)

 扉をじっと見つめて、その向こう側に意識を集中させる。ぎぃ……ぎぃ……と軋む音に加えて、何かを引きずるような音まで聞こえる。

 それはさながら、誰かが足を引きずって一歩一歩前に進んでいるような音だと――。

「……」

 ゆっくりとベッドから抜け出し、足音を立てないようにして扉に近づく。ちらりと見えたデジタル時計の表示は午前二時を示していた。

 ノブに触れる。ひんやりとした感触が手の平に張り付くのを感じ、思わず息を止めた。

 音はまだ聞こえる。

 この薄い扉の向こうに、音の正体がいる。

(……どうしよう)

 開けない方がいい、そう思った。

 だがその気持ちとは裏腹に、今ここで正体を確かめておかなければ、結局ずっと得体の知れない脅威に晒されたままになるという恐怖があった。

考えただけで心臓が締め付けられる。この不安を払拭したかった。

「……っ!」

 次の瞬間、満春は思い切って扉を開けた。

 だがそこには――

「……え、」

暗い廊下が広がっているだけだった。

「気のせい、だったのかな……」

 念のため、恐る恐る廊下の方に身を乗り出して左右を確認する。だがやはりそこには人の気配もなければ何か異物があるということもなかった。暗闇には、何もない。

 満春は小さく息を吐くと、ゆっくりと自室の扉を閉めてベッドへ戻った。

 掛布団を被り、体を横に丸めるようにして目を閉じる。速まっていた自身の心臓が、徐々にゆっくりになる感覚に伴って眠気が襲ってきた。

 その時だった。


 ――ぎしぃ……。


 思わず閉じていた目を開き、身を強張らせた。

 何かがベッドの足元に乗り上がって来たような感覚と共に、軋むような音が確かに聞こえた。

(え、なに……)

 何かいる、直感がそう叫んでいた。

 得体の知れない何かが、徐々に満春の足元から上へ上へと昇ってくる。その度にベッドがぎしぃ……ぎしぃ……と音を立て、沈み込む。

「…………ッ!」

 体は震えるのに、動く事が出来ない。金縛りだ。そう思った時にはもう遅い。

 その音の正体――青白い顔に埋没した黒い瞳、まるで水の底から這いあがって来たかのように全身がずぶ濡れの姿が、掛布団の向こうからヌッと顔を覗かせた。

 そしてそれは――満春と同じ顔をしていた。


「――ッきゃあああ‼」


 絶叫した満春の首に、ざらりと湿った手が触れる。

 首を絞められる、そう思った満春は無我夢中でベッドから飛び出し、扉にぶつかる勢いでノブにしがみついた。

「いや……っ! 助けて‼」

 全体重を使ってノ扉をこじ開け、廊下に転がり出る。冷たい床に自分の体が打ち付けられる音が嫌に大きく響けば、異変に気がついた深雪が自室から飛び出してきた。

「満春、どうしたの⁉」

問いかけられても声が出なかった。視線は自室の中のベッドに向けられたまま、恐怖で体の震えが止まらない。

「落ち着いて、何があったの」

 そばに来た深雪がゆっくりと抱きしめるようにして背中を擦ってくれる。微かに香る深雪のシャンプーの香りで、ようやく息が落ち着いてきた。

「私が……いたの……」

「え?」

「どうしようお姉ちゃん、私……コイトサンに出会ってしまった……っ」

 深雪の腕にしがみつくようにして目を閉じるが、あの顔が網膜に焼き付いて離れない。

 コシズの言っていたように、コイトサンが標的になった人間が死ぬ時の姿で現れるというのならば、自分はどうやって死ぬのだろう……。

そんなことを考えた自分が恐ろしくて、結局夜が明けても満春は眠ることが出来なかった。


             ***


 翌日の五月二日。

 早朝に満春から来た連絡に、蓮夜は思わず目を見開いた。

『私、多分コイトサンに会っちゃった……』

 たった一言だというのに、酷く背中が冷える感覚。

 蓮夜はすぐさまロクロウとサネミを連れて、逢坂家に向かった。


 逢坂家に着くと、玄関で蓮夜達を迎えてくれたのは姉の深雪だった。ティーシャツに短パンというラフな出で立ちだが、その表情はどこか緊張している。

 蓮夜達を台所兼リビングに通した深雪は、三人に椅子に座るように促しつつ、自分は流し台に腰を預け、寄り掛かりながら続けた。

「どういう状況か説明してもらえる? 昨日の夜、満春の悲鳴で目が覚めたわよ」

 ため息交じりに言う。少しばかり疲れているように見えるのは寝不足のせいなのだろうか。

「どうやら満春ちゃん……コイトサンっていう怪異に目を付けられているみたいなんだ」

「コイトサン? 何よそれ」

「ドッペルゲンガーとは違って自分の死に際の姿で現れて……二度目に遭遇した時は死ぬって言われている怪人みたいなものらしい」

「は⁉ 死ぬって何⁉」

 深雪が流し台から腰を浮かせて蓮夜に詰め寄るが、それを見たサネミが二人の間に身を滑り込ませて割って入った。

「落ち着いてください」

 やんわりと肩を抑えられた深雪がグッと口を結んで押し黙った。蓮夜に強く当たるのは筋が違うということを、彼女はちゃんとわかっているようだった。

「一応対策は立てたつもりでしたが、迂闊でした。家の中に居ればとりあえず遭遇は免れると思っていましたが、そうは問屋が卸さないようです。どこにいようと、コイトサンは満春さんの前に現れることが出来る……となると、対処の仕方も今一度考える必要がありますな」

「うん、それを考えないといけない……でもまず、家族である深雪さんには事情を話しておくべきだと思って来たんだけど……」

「もういっそのこと、満春を囮にしたらどうだよ。出てきたところを抹殺した方がはえーんじゃねぇか?」

 椅子の上で反り返るようにして気怠そうに言ったロクロウを、蓮夜はじろりと睨む。

「次出てきた時は手遅れかもしれないだろ! 遭遇した瞬間にどうにかなってしまう可能性があるから下手なことは出来ないよ」

 言い返したタイミングで廊下に続く扉がギィっと開き、そこから満春が静かに中に入って来た。二階の自室から降りてきたであろう彼女は、深雪と同じようにティーシャツにゆったりとした短めのズボンを履いていた。

「蓮夜君……」

「あ、満春ちゃん」

「連絡してごめんね……」

 蓮夜の隣まで歩いてきた満春が申し訳なさそうに俯く。

「いやいや、連絡してくれないと困っちゃうよ。僕達があの日、もう少し気を回していたら一回目の遭遇は避けられたかもしれないのに……こっちこそごめん」

 同じように申し訳なさそうに言って頭を下げれば、それだけで満春の瞳が不安そうに揺れた。

「もう……あんた達しっかりしてよね。私がそばに居られたらいいんだけど、よりによってこのタイミングで……」

 腕を組んだ深雪が、眉間に皺を寄せてため息を吐く。

「その口ぶりだと、お前さん何か用事でもあんのか」

「……今日の午後から隣の県で野外ライブのフェスがあって、うちのバンドが高校生枠で呼ばれてるから行かなきゃいけないのよ」

 珍しく不本意そうに深雪が言えば、満春慌てて「私は大丈夫だよ」と言う。姉に心配をかけたくないという気持ちが痛い程伝わってくるが、現に満春の前にはコイトサンが一度現れてしまっている。大丈夫なわけがない。

 だが、大丈夫なわけがないなどと、深雪と満春の前で言えるわけがなかった。

「さすがに深雪さんボーカルだし、行かないわけにはいかないよ」

「わかってるわよ。わかってるけど……もし私がいない間に満春に何かあったら……」

組んだ腕が震えている。それを隠すために深雪はぐっと腕に力を込めた。

 二人は血の繋がった姉妹なのだ。心配じゃないわけがない。

 蓮夜は小さく息を吐き、心を整えてから口を開く。

「大丈夫。僕だけじゃなくて、ロクロウやサネミもいてくれる。絶対満春ちゃんは守るから」

 自分で思ったよりも強い声が出た。

 深雪は一瞬、少しだけ目を見開いたが、やがてどこか緊張が解けたかのように息を吐いた。

「私、蓮夜のことは信用してるつもりよ」

「うん」

「……だから、満春のこと、頼んだからね」

「大丈夫、守るって約束するよ」

 微笑み返せば、難しい顔をしていた深雪がようやく微笑んだ。


「……で? 感動的なやり取りをしたところで悪いが、具体的にはどうしようってんだ?」

 蓮夜達のやり取りを黙って見ていたロクロウが、テーブルに片肘をつきながら言う。隣に座ったサネミも口を出すタイミングを見計らっていたようで、少しばかり身を乗り出す様にして続けた。

「緊急事態です。打開策を考えるにも、コシズを連れて来た方がいいでしょうな」

「まーたその人魚か。だが来るか? ここは人里だぞ」

「満春さんの非常事態です。ああ見えて彼女は女性の強い味方ですから」

「とりあえずコシズさんを呼ぼう。サネミ、彼女を連れて来れる?」

「承知」

 軽く会釈をしたサネミが、スッとその場から姿を消す。窓も開いていないのに、一瞬どこからともなく風が吹き込んできて、テーブルに飾られた花瓶の花を揺らした。

「とりあえず、サネミ待ちだね」

「まぁ、サネなら上手い事やるだろ」

 欠伸をしながらロクロウが言えば、深雪がチラリと腕時計に目を落とす。

「私そろそろ行かなくちゃ」

「あ、うん」

「あんた達、本当に頼むからね……」 

 小さくため息を吐いた深雪の表情には、やはりどこか影が差していた。妹の一大事にこの場を離れることに負い目を感じているように見える。もしくは、コイトサンの脅威に薄々勘付いているのか。彼女も一応れっきとした幽霊だ……人外の脅威を肌身で感じてしまう可能性は十分にある。

 そんなことを蓮夜が考えているうちに、深雪が荷物を取りに二階の自室へ向かおうとした。

 途端、それまで気怠そうに片肘をついていたロクロウが「おい」と深雪を呼び止めた。

 振り返った深雪が「何よ」と短く言う。

 ロクロウは一瞬、ただジッと深雪を見据えた。深雪も何かを感じたのか、佇んだまま、その視線を受けた。

「……大丈夫だって言ってみろよ」

 やがて口を開いたロクロウが言う。

「え?」

「お前さんの言葉はただの言葉じゃねぇんだ。言ってりゃ、本当になるだろうぜ」

「あ……」

「というか、お前さんが本気出せばコイトって野郎も案外簡単に消滅させられたりしてな」

 ニッと口角を上げる。ロクロウはそれ以上何も言わなかったが、深雪には、彼が言わんとしている事が伝わったらしい。

 応えるようにフッと口元を緩めて「……馬鹿ね」と呟いた。

「それじゃあ満春。私行くけど、くれぐれも用心しなさいよ」

「うん、ありがとう、お姉ちゃん」

 深雪は満春に手を振ると、そのままリビングを出て行った。


「……随分優しくなったじゃん、ロクロウ」

 一連の流れを見て、要するにロクロウなりの思いやりだったんだろうと蓮夜が笑えば、ロクロウは特に否定することもせず、やれやれと言わんばかりに「さぁな」と肩を竦めた。


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