「はーい、満春ちゃん! お招き頂き光栄だわ~! ありがとうね!」
その日の午後、ルンルン気分もいいところな状態で現れたコシズは、パッと見では美しい人間の女性と見間違うかのような姿だった。
肩が丸見えのサマーセーターに、ジーンズ生地の短パン。おしゃれな帽子にサングラスという出で立ちは、どこぞのモデルを連れて来たのかと錯覚するほどのプロポーションである。
「私が来たからには、それなりにどうにかするから安心して」
出迎えた満春の頭をよしよしと撫でながら言うコシズの後ろで、蓮夜はサネミに小さく耳打ちする。
「……なんか随分遅かったね、サネミ」
心なしか、サネミの顔が疲れているような気がする。
「いえ、それが……せっかく人里に下りるんだから、エステに寄らせてくれと言われまして……」
「エステだぁ? おいおい他人様の命が懸かってるってのにとんだイカレ野郎だな」
声を抑えるようにして会話していた蓮夜達の声を、横にいたロクロウは見事に聞き取っていたらしい。わざとらしく大声で言うもんだから、思わず「おい!」と実体化していたロクロウのスーツの袖を引っ張ってしまう。
だがコシズ本人は微塵も気にしていない……いや、そもそも耳に入っていない様子で満春に向き合ったままだった。
(聞こえてなくてよかった……)
無駄な争いは避けたい。蓮夜は思わず大きく息を吐く。コシズはそのまま「お邪魔します~」とご機嫌にお辞儀をして、丁寧に靴を揃えて満春の家に上がり込んだ。
蓮夜達も慌てて後を追うように靴を脱ぎ、ちゃんと揃えてから家に上がる。
と、ふいにコシズが二階の満春の自室へ向かおうとせず、そのまま廊下の途中にある浴室に向かっていることに気が付いた。
どういうことだ、と蓮夜の頭の中にハテナが浮かぶが、それより先に状況を理解したらしいロクロウの手が伸びて、あろうことかコシズの長くて綺麗な髪を引っ張った。
「きゃっ! 痛いじゃない!」
「痛いじゃない、じゃねぇ。お前さん、ひょっとするもしねぇも風呂場に入ろとしたろ」
「ん? それが?」
「本当にイカレてんのか? なーに人の家に来て早々風呂場に直行しようとしてんだ」
ロクロウにしては珍しく酷くまともなことを指摘している。頭の片隅で感心していると、負けじとコシズがロクロウの手から奪い返した毛先を背後に流しながら頬を膨らませた。
「あら、変な事言うのね。私人魚よ? 干からびちゃうじゃない」
「どう見ても今はちゃんと足生えてんだろうが。少しは陸のルールに従えや。話が進まねぇだろうが。俺様達は暇じゃねぇんだ」
「やーね、短気な男は嫌われるわよ?」
「何とでも言え」
苛立ちをなんとか堪えたロクロウが踵を返し、先にズカズカと階段を登っていく。
「……やれやれコシズ、冗談が過ぎますな」
横で黙って見守っていたサネミが肩を竦めながら言えば、コシズは「冗談だったのに~。典型的女子にモテないタイプの男ねぇ、アレ」とどこか愉快そうに言った。そのままルンルンな足取りでロクロウを追いかけるようにして二階へと駆け上がって行く。
取り残された蓮夜とサネミ、そして満春はお互いに顔を見合わせた。
「……なんというか、ひょっとして、ある意味でロクロウに盾突ける貴重人材だったりする?」
「……かもしれませんなぁ」
階上を見上げながら言う二人に、満春も少しだけ表情を綻ばせた。
とりあえず蓮夜とサネミも階段を上がり、満春の部屋に入る。
部屋の中ではロクロウが気怠そうにベッドの上で横になり、コシズが満春の部屋のクローゼットを物色していた。
「おい、ロクロウ! 満春ちゃんのベッドに勝手に寝るな!」
「うるせぇなぁ、どこにいようと同じだろ」
「コシズも! 満春ちゃんの洋服を勝手に触らない!」
「ええ~! だって現代の女の子の部屋に入るチャンスなんか滅多にないんだもの!」
頬を膨らませながら反論するコシズにまたしても大きなため息が出てしまう。こんな好き勝手している場面を今一階でお茶を入れてくれている満春が見たらどう思うだろうか。考えただけで情けなくて胸が痛くなってしまう。
「頼むよ、頼むからちゃんとして……」
コシズの手から洋服を奪い取り、元あった場所に納めてクローゼットの扉を閉めた。
と、ちょうどそのタイミングで、満春がお茶とお菓子をお盆に乗せて部屋の扉を開けた。
セーフ、と蓮夜は内心独り言ちる。
提供された小さな皿の上には、真っ白いブールドネージュが乗っていた。
「おいおい……まーたこの白い菓子かよ」
途端、げんなりした声でロクロウが言う。
「え、ロクロウ、これ食べたことあるの?」
いつの間に? と問えば、ため息を吐きながら「不可抗力でな」と微妙に答えになっていない返事が返ってきた。
そういえば先日のおかむろの一件の際、ロクロウは深雪についてこの家に上がり込んでいたはずだ。となると、深雪が茶菓子としてロクロウに提供したという具合だろうか。
そんな事を考えていると、
「さて、では本題に入りますかな」
よろしいですか、とサネミが言った。皆の視線が一斉に彼に集まる。彼は床に正座をし、姿勢よく前を見据えるように続けた。蓮夜達もそれに倣う。
「コイトサンの一件はどうも一筋縄ではいかないようでしたので、こうしてコシズに知恵を借りようと、急遽連れてきた次第ですが……」
「そうそう、サネミから聞いたけど、満春ちゃん出会っちゃったんだって? コイトサンに」
サネミの言葉を遮るようにしてコシズが割り込んでくる。細く綺麗な指でクッキーを摘まみ、口に放り込みながら言うトーンは軽いが、その瞳はどこか真剣な色を孕んでいた。
「はい……夜中にベッドの上で」
「その時に何かされたりした?」
「私の事を睨んでました……あとは首を絞めるように触れて来たんですけど、私はそこで部屋の外に逃げちゃって……」
言えばコシズは考え込むように黙った。
「コシズ、コイトサンに会うのは人生に二度という事でしたな。とすれば、遭遇するのは多かれ少なかれ後一度ということです。何か策を考えねば」
「いつ来るかもわからないよね。昨日みたいに夜に突然だったりしたら防ぎようがない……あ、でも予兆って残り一個あるんだったよね?」
蓮夜が問えば、「そうよ」と答えたコシズが湯呑を手に取ってお茶を啜る。
「正直、その三番目の予兆は本人に影響が出るものだから……もしかしたらコイトサンが最後に姿を現すのと同時に起きる現象なのかもって思ってたけど、どうやら違うみたい。予兆はあくまでも予兆ってことね」
湯呑を置いたコシズの手がスッと持ち上がる。細く白い指が示す先には、満春の手。コシズと同じように白く細い指が不安そうにびくりと震える。
示された先――満春の左ての薬指の腹に、赤い点のようなものが浮かび上がっていた。まるで針で指を突き刺した時のような赤い血玉は、あっという間に指先から滴り落ち始める。
「え、なに、これ……!」
満春の目が見開かれ、正座が崩れる。後退りそうになる彼女の体を、近くにいたサネミがさり気なく支えた。
「なんで、私これ……さっきまで、何ともなかったのに……」
「満春ちゃん、落ち着いて」
這うようにして蓮夜が満春に近寄って、血の滴る手をそっと掴み上げた。
それは幻なんかではなく本物の血で、今まさに流れ出したと言わんばかりに潤っている。
「痛い?」
「ううん……痛くはない」
その言葉に内心ホッとしつつも、突如として流れ出した血には脅威しか感じられない。
「思ったより侵略が速いですな」
サネミが珍しく眉間に皺を寄せる。
「気配なんてものは、感じませんでしたが」
確認するようにサネミがロクロウを見遣ると、彼も「ああ、まったくだ」と肩を竦める。
「でしょうね。私もたまたま満春ちゃんの指先が視界に入っていたから、その変化に気づいただけ。何かがこの部屋に入って来た気配はなかったわね」
「じゃあこれはなんなの?」
「呪術の一環なんでしょうね。最初の動物の不審死から始まって、五円玉の消失、そして一度目の遭遇、極めつけに三個目の予兆の薬指の傷がこのタイミングで起こったのは、全て最初から計画されていたことなのよ。前にチラッと話したけど、それこそ言ってしまえば契約よね。一度発動してしまえば、この呪術――
「ってことは、もうここまで来たら最後……二度目のコイトサンはいつ現れてもおかしくないってことか……」
「あっちもあっちで、俺様達が加担したことに気がついて焦ってんだろ。事を急いでる感じがするな」
ベッドの上で胡坐をかいたロクロウが、膝に片肘を付いて言う。
なるほど確かに、それは一理あるかもしれない。もしも自分が怪異側だとしたら、何か手を打たれる前に事を済ませてしまいたいと考えるのは当然だろうと思う。
ましてやこちら側には悪霊に英霊、それに戦闘力は不明だが人魚までいるのだ。あちら側からすると脅威以外の何物でもないはずだ。
「ねぇ満春ちゃん。首を絞めようとしてきたコイトサン……どんな感じだったか思い出せる?」「え?」
「なんでもいいの、風貌とか」
「…………」
困惑したように、満春の眉間に皺が寄る。何かを思い出すかのように目を伏せると、長い睫毛が頬に影を落とした。
「えっと……なんというか肌が青白くて血の気がなくて……唇も紫で……目も充血していて……あと、首に触れて来た指が……ご老人の皮膚みたいにざらりとしていたり……」
「ちょっと聞いてみるんだけど、満春ちゃんこのお休み期間にプールとか海とか川とか……なんか水辺に出かける予定ってあったりする?」
「え? あ……明日、夏に向けての海岸の清掃活動ボランティアに参加することになっていて……でもこんな状況だし、断ろうかなと思ってて……」
「…………」
コシズの視線が鋭くなったのを、蓮夜は見逃さなかった。
まるで何か――それこそ心当たりがあるかのように黙り込み、床に視線を落とす。部屋が一瞬無音になり、嫌な緊張感が走る。
これは、何かまずい状況に心当たりがあるのか。
彼女の次の言葉が怖い。正座の上に乗せた手に、つい力が籠る。
だが、次の瞬間コシズの口をついて出た言葉は、蓮夜が思っているものとは大きく異なっていた。
「よし! じゃあせっかくだし、みんなで明日海に行きましょうか!」
「えッ⁉」
さっきの真剣な雰囲気とは裏腹に、あっけらかんと彼女が言うもんだから、つい大きな声が出てしまった。
「おいおい、お前さん気でも触れたのか?」
ロクロウまでもが呆れたように言う。今回ばかりは蓮夜も彼の言葉に同意してしまいそうだった。こんな状況で海に行くなんて、それこそどんな危険があるかわかったもんじゃない。
「えっと、コシズそれはどういう……」
「あら? 心配性ねぇ。気の弱い男の子はモテないぞ!」
言ったコシズの視線が、なぜかベッドの上にいるロクロウへ向けられる。ロクロウの眉が一瞬顰められるが、すぐに怠そうにそっぽを向いた。
彼に何か言いたかったのか、その答えを考える暇を与えないように、コシズは軽快に提案を続ける。
「どうせ家に居ても出て来るなら、少しでも狭い空間にいるよりは気分爽快になるほうがいいわよ! 病は気からとも言うし! 怪異や人外なんてものは、鬱々としていると余計に引き寄せちゃうんだから!」
「ええ、でもコシズ……!」
「だいじょーぶ! 海出身の私がいるんだから。それに、清掃ボランティアなら泳がなくていいわけだしね。終わったら海の近くのペンションを借りて、みんなでバーベキューでもしましょうよ!」
髪の毛を後ろに流しつつ、綺麗な指でピースを作って見せる。
人魚が陸地でバーベキューをやりたがるなんて中々にシュールだと思いつつ、蓮夜は彼女の申し出を懸命に咀嚼しようと努めてみる。
何かきっと考えがあってのことなのだ。そうでなければ、わざわざ危険の多い屋外に自ら赴かせることなんかしない。絶対そうだ。
「……コシズ、本当に大丈夫なのですか?」
蓮夜の表情を読んだのだろう、サネミが代わりにコシズに囁くも、彼女は至って普段のテンションで「へーきよ! 何も心配いらないわよ!」と笑う。こうもハッキリ言われると、何も言えなくなってしまう。
「大丈夫、悪いようにはならないから」
彼女の言葉を受けて、蓮夜はサネミと満春と視線を合わせる。
ただ一人、蓮夜達の背後のベッドにいたロクロウだけは、ジッと彼女のことを見据えていた。だがそのことに、蓮夜は気がつかなかった。
***
結局コシズの提案通り、明日は満春が参加予定だった海岸の清掃ボランティアに全員で参加することになった。
待ち合わせ場所を決め、とりあえずコシズが今夜は満春の周辺を警戒するために逢坂家に宿泊すると言い出す。
「コシズ、本当に一人で大丈夫?」
二階の部屋を出て、一階へ降りる途中で蓮夜が振り返って言う。手に人数分の湯のみと皿が乗ったお盆を持っているせいか、姿勢が少し窮屈そうだった。
「大丈夫よ。それに、レディの家にそう簡単に野郎は泊まらせられないわよ」
「……変な所で常識あるんだね」
「ん? 何か言った?」
「なんでもない!」
慌てた様子で階段を降りて行く。先に一階に降りていたサネミと満春の声が廊下の先から聞こえてくる。
その様子に、コシズは微かに微笑んだ。
と、その時。
一番最後尾で階段に差し掛かったロクロウが、背後からコシズに囁いた。
「……お前さん、見た目によらず悪い女だな」
コシズが数段上を振り返る。
ロクロウの両目が、薄暗い階段の中で赤く光っていた。
「……あら、悪霊にそう言われるなんて光栄だわ」
それまで柔らかかったコシズの雰囲気が少しばかり鋭くなる。さっきまでの楽天的な雰囲気はなく、どこか妖艶な気配が漂う。
「っは、抜かせ。だが――度胸があるな」
「貴方だったらわかってくれると思った」
意味深な笑みを浮かべ、髪を掻き上げる。
「押すだけが全てじゃないわ、引く……いや引き寄せることも、時には大切よね」
彼女の強い眼差しには、確信の色が浮かび上がっていた。