傍らに置かれた一輪の花が、吹き込んだ風でひらりと揺れている。
会議を終え戻ってきた父親が、椿の様子を見てため息を吐く。
そして、東院が雇っている医師と何かを話しながら、再び部屋を出ていった。
椿の父親は、東院の家長でもある。
娘を
従順で気立ての良い娘が、数ヶ月前から抜け殻のようになり始めたのだ。
徐々に笑わなくなり、無気力になっていく椿を見て、東院は何度も医師を呼び寄せた。
──結果的に、医師はとある病の可能性について、口にすることとなる。
「ロストメモリーシンドローム」
椿しかいないはずの部屋に、澄んだ女性の声が響いた。
耳当たりの良い声に導かれ、椿の目線がゆるゆると音の先へ向けられる。
宙に浮かぶ裂け目から、黒い何かが降りてきた。
黒い何かは、後から現れたもう一方に二言三言話しかけると、椿の方を観察するように眺めてくる。
得体の知れない存在を前にして、椿の身体が小刻みに震え出す。
本能による震えの止め方など知る由もなく。
椿は戸惑いつつも、両腕で身体を押さえ付けることしか出来なかった。
「この姿だと話しにくいよね」
何かが呟くと同時に、身体を覆っていたローブが剥がれ落ちる。
次いで、椿の視界に夜空を写し取ったような色が広がった。
編み込まれた金のリボンが、髪の間で遊んでいる。
はっきりと合った目は、宙のように神秘的で。
自分はもうすぐ死ぬのかもしれない。
そんな風に考えるほど、椿の前に立つ存在は、この世のものとは思えないなりをしていた。
「大丈夫? 見えてるよね」
微動だにしない椿と、近くで振られる手。
問いかけるように首を傾げる睦月を見て、椿の目に仄かな光が宿った。
「見えて……ます」
「なら良かった。あまり時間もないから、端的に伝えるね」
睦月に抱えられた黒猫から、月のような輝きが覗く。
「このままだと、あなたは病によって廃人になるか、自ら命を断つことになる」
「……え?」
突然の宣告に、椿から蚊の鳴くような声が漏れた。
訳も分からず睦月を見返す椿だが、これが冗談ではないことだけは感じ取っている。
「かなり進行が早いけど、今なら助かる方法もあるよ。あなたには、まだ自分で決められる意思が残ってるみたいだから」
──死んだ魚のような目。
そう溢した母親は、既に椿のことを諦めていた。
足掻き続ける父親も、
抜け落ちていく記憶を自覚してからは、辛いことや悲しいことばかりが頭を占めていく。
それでも椿が狂わずいられたのは、あるがままを受け入れていたからだ。
椿にとって人生とは、敷かれたレールの上を歩き続けることだった。
親の威光は強く、望めば大抵の物は与えられた。
そんな恵まれた環境を、椿は普通のことだと考えていたのだ。
しかし、子供だからと当然のように享受していた幸福は、誰かの犠牲の上に成り立っていることを知り。
人は平等ではないという事実が、椿にまざまざと現実を見せつけてきた。
大人になるということは、我慢を知るということだ。
たとえ恵まれている人間でも、いずれは我慢を知ることになる。
先送りにすればするほど、ツケが後でやってくるように。
たとえ親に敷かれたレールであろうと、椿にとってその上を歩くことは、義務にも近しいことだったのだ。
「……陽向様が、大切なんですね」
枯れていくのを待つばかりだった花に、水は必要かと聞く程度には。
心の中で呟いた言葉が、口から溢れることはなく。
けれど、何もかも見透かすような瞳の前では、意味のないことだったのかもしれない。
きっと睦月には伝わっている。
そう解っていながらも、椿は睦月の目から視線を逸らせずにいた。
「陽向が変わろうと努力するなら、最後に手伝いくらいはしてあげたいからね」
淡々とした声、変わらない表情。
他人から見る睦月の姿は、陽向を思っているとは微塵も考えられないほど無だ。
姉同然だと慕われながらも、睦月がそれらしい行いをしたことはなく。
駆け寄るのも、笑いかけるのも、手を握るのも。
いつも陽向からしていたことだった。
それでも、心がない人形のようだと話す一族に対し、泣きながら怒っていた陽向を見て、睦月は情という感情を理解していった。
まるで、今の椿のように希薄で。
けれど、人形でも、死んだ魚でもない。
意思を持つ、一人の人間として。
「どうしたら……良いのでしょうか」
このまま空虚な日々を過ごし、終えていく。
そんな諦めにも近い感情が、覆されていくのを感じる。
睦月という
悩む時間もないほどの刹那。
けれどその一瞬で、椿は睦月の手を取ることを決めていた。