「ひとまず、そこにいる妖精をどうにかすることからかな」
「妖精……?」
睦月の視線を辿り、椿の視線も横に逸れていく。
「何も……いませんが」
「人間には見えないからね。でも、あなたなら聞くことはできるはずだよ」
睦月の言葉に、椿の瞳が揺れる。
今や血も薄れ、この特性を持つ者は稀だが、完全に居なくなった訳ではない。
睦月の父親であり、先代の当主であった
壱月ほどではないが、椿も一族の血を濃く受け継いでいる。
そこに居ると認識さえできれば、声を聴くことは可能だろう。
「これは?」
「ウインターコスモスです。少し早いですが、もう咲いていたようで……」
「その花、誰に貰ったか覚えてる?」
傍らに置いていた花について問われ、椿は一輪だけの彩りを手に取った。
しかし、次いで問われた言葉に、花が手から滑り落ちていく。
覚えていないのだ。
何処で摘まれたのか、いつ渡されたのか。
どうしてここに在るのかさえ、何も分からない。
「隣にいる妖精に、聞いてみたらどうかな」
睦月には見えているのだろう。
断言にも近い言葉に、椿は空気しかないはずの場所へと視線を向けた。
『つばき』
「……あ」
微かに届いた声に、自然と息が漏れる。
椿には友達がいた。
箱入りだった椿の元を毎日のように訪れては、花を一輪贈ってくる──そんな可愛らしい友達が。
断片的に浮かんだ映像は、椿が失っていた記憶の一部だ。
ほんの数週間前のことさえ忘れかけていたという事実に、椿は呆然と硬まった。
『花だったら見えるでしょ?』
そう言って、いつも懸命に運んできてくれていたのに。
「どうして……」
両手で顔を覆う椿は、自らの病がいかに深刻なものか分かっていなかった。
父親は黙って医師に従うよう指示し、医師からは処方した薬を飲んだか確認されるだけ。
徐々に異変を感じてはいたものの、気づいた時には手遅れだったのだ。
いつの間にか、大切な友達が居たことさえ忘れてしまっていた。
声を殺して泣く椿を、睦月が慰めることはなく。
けれど、椿の雨が降り終わるまで、静かに傍で見守っていた。
◆ ◆ ◇ ◇
涙を流す椿の頬に、そっと妖精が寄り添っている。
病に罹患したことで、無気力になっていく椿をどうすることも出来ず、しかし諦めることも出来なかったのだろう。
毎日のように花を贈り続け、再び気づいてくれる日を待っていたのかもしれない。
「すみません……取り乱してしまって」
「気にしなくていいよ」
無理もないだろう。
時間が無いとは言え、突然やって来た怪しい存在に、深刻な現状をずけずけと話されるのだから。
腕に頭を寄せてくる霜月を撫で、椿と目線を合わせる。
「あなたが助かる方法について話してもいい?」
「お願いします」
こくりと頷いた椿が、こちらを真剣な表情で見返してくる。
「まず、ロストメモリーシンドロームは不治の病と言われてるけど、治療する方法は幾つか存在してる。ただし、どれも人間の手で治療するのは不可能だから、これは例外だと思っていて」
休息所にあった記録書の中に、似たような症例が載っていた。
同じやり方であれば、治すのはそれほど難しくないだろう。
「今のあなたが取れる選択肢は二つ。一つは、妖精と出会った以降の記憶を全て消し、繋がった縁を断ち切ること。もう一つは、記憶はそのままに、妖精の存在自体を消してしまうこと」
部分的に消しても意味がない。
一度発症してしまえば、病の影響は他の記憶にまで及ぶことになる。
「その妖精と少しでも関わりがある限り、あなたの病が完治することはないよ。だから選んで。数年分の記憶を放棄して、金輪際関わることなく生きていくか。それとも、記憶を残すために、原因そのものを無かったことにするか」
「原因、そのもの……」
ずっと疑問だった。
どうして上司は、幼い私から自身の……いや、人ならざるものたちの記憶を消したのか。
でももし、ロストメモリーシンドロームが“人外と関わったことにより発症する病”なのだとしたら──。
「その妖精を消せば、過去に起きた全ての事柄が、
病に罹ったことも、今この瞬間の出来事も根こそぎ消えて、他の
「もし……そうなったとして、その時の私は……果たして私だと言えるのでしょうか」
「根幹が同じである限り、あなたがあなたであることに変わりはないと思うよ。ただ、歩んできた道が変われば未来も変わるように、今のあなたと同じ思考を持っているとは言い切れないかな」
満月と出会わなかった世界。
霜月や上司が、私の元を訪れなかった世界。
分岐した未来では、そんな世界に生きる私もいたのかもしれない。
「どちらにせよ、記憶を消せば数年前のあなたは戻ってきても、今のあなたが戻ってくることはないからね。命を取るなら、犠牲も必要だと割り切るしかないよ」
椿の傍に浮かぶ妖精は、黙って椿に寄り添っている。
選択肢に自らの消滅が挙がっているにも関わらず、妖精は心配そうな眼差しで、椿をじっと見つめるばかりだ。
「明日また会いにくるから、その時に答えを聞かせて」
生きるということは、犠牲を払い続けるということでもある。
もし私が、椿の立場だったら──。
存在するかも分からない並行世界の自分を想像し、薄く笑みを溢す。
月の如き輝きが、
結局、どんなに未来が変わろうと“私”は“私”なのだ。
そんな確信が、頭を過ぎっていった。