縁側で夜風に当たっていた睦月は、膝で丸まる霜月の背を撫でていた。
気持ち良さそうに目を閉じていた霜月だが、不意に顔を上げると、耳をピンとそばだてている。
「一人で来たんだね」
暗闇から姿を現した妖精は、椿の傍にいた
睦月たちに怯えながらも、妖精は意を決した様子で近寄ってくる。
『取引を……してください』
「取引、ね」
妖精が、死神に対して“取引”を持ちかけた。
つまりそれは、格上の存在を納得させるだけの何かを持っているということだ。
「話によっては考えてもいいよ」
視線を向けられた妖精が、身震いをしている。
精霊という土着の神がいる世界で、死神とは何処にも属さない神たち──いわゆる
死神と妖精では比べるのもおこがましいが、僅かながら共通点もある。
それは、有益な物には対価を支払うという点だ。
相手がどんな存在であれ、取引が成立すれば約束が破られることはない。
取引に応じるかは格上側の判断に委ねられるが、臆病な妖精が単独で死神に会いにきた。
その覚悟と、椿に対する深い思いを汲んで、睦月は話を聞いてみることに決めた。
◆ ◆ ◇ ◇
宙に現れた裂け目から降りてきた睦月を見て、椿は姿勢を正している。
妖精と出会ってからの記憶を消すか、妖精の存在自体を消すか。
難しい選択だが、椿はそれほど悩まなかった。
本当に美しい容姿だ。
フードを外した睦月を見て、椿は感嘆の息をつく。
一族の集まりには父である東院と、後継者である兄が参加していたため、椿が睦月を目にする機会はほとんどなかった。
同じ一族だと知ったのも、つい昨日のことだ。
色々と疑問は残るものの、椿の身体にはほんの少しだけ睦月と同じ血が流れている。
その事実は、椿の心に仄かな勇気を与えてくれた。
「答えを……聞きに来られたのですよね」
病により記憶を失くしても、毎日のように花を贈り続けてくれた妖精。
大切な友達を消すなど、椿にはできるはずもなかった。
「そのつもりだったんだけどね。少し事情が変わったんだ」
「え……?」
椿の視界がぐらりと揺れる。
病で失くしたはずの記憶が、脳内を走馬灯のように流れていく。
混乱する椿の目に、窓際の机が映った。
──今日はまだ、花が届いていない。
震える唇が、睦月の名を呼ぼうとする。
「……あれ? 私、どうして……」
目の前の存在が、どんな名前だったか思い出せない。
激しくなる頭痛に、椿は頭を押さえていた。
部屋から外を眺めるばかりだった椿に、花をプレゼントしてくれた妖精。
彼女との思い出も、約束も、椿の中から一瞬で解けていく。
「……どんな約束……でしたっけ……」
取り戻したそばから書き換わっていく記憶が、激流のように押し寄せてくる。
いつしか椿は、意識を失っていた。
◆ ◇ ◇ ◇
「つばき。……椿、聞いているのか?」
肩を揺すられ我に返った椿は、前に立つ東院の姿をぼんやりと見つめた。
「お父様……」
「まだ体調が悪いのか?」
「いえ……平気です。問題ありません」
本館と別館を繋ぐ渡り廊下の周囲には、見事な日本庭園が広がっている。
今は依子と過ごしている陽向だが、明日になれば椿と交代する予定だ。
東院に生まれたからには、期待に応えなければならない。
椿の様子に満足げな顔をした東院は、再び足を進めている。
「なら良い。しっかりと勤めを果たしてきなさい」
「はい、お父様」
庭園の花が綺麗だ。
何気なく庭を眺めていた椿は、廊下の向かいから誰かが歩いてくることに気がついた。
「お父様、あの方は……?」
「ああ、彼女は
横にそれた父に
会釈する椿たちの前を、睦月が通っていく。
──こんなにも美しい人がいたなんて。
東院の後に続きながら、椿は睦月の姿が見えなくなるまで、何度も後ろを振り返っていた。