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ep.11 ロスト


 縁側で夜風に当たっていた睦月は、膝で丸まる霜月の背を撫でていた。

 気持ち良さそうに目を閉じていた霜月だが、不意に顔を上げると、耳をピンとそばだてている。


「一人で来たんだね」


 暗闇から姿を現した妖精は、椿の傍にいた妖精だ。

 睦月たちに怯えながらも、妖精は意を決した様子で近寄ってくる。


『取引を……してください』


「取引、ね」


 妖精が、死神に対して“取引”を持ちかけた。

 つまりそれは、格上の存在を納得させるだけの何かを持っているということだ。


「話によっては考えてもいいよ」


 視線を向けられた妖精が、身震いをしている。


 精霊という土着の神がいる世界で、死神とは何処にも属さない神たち──いわゆる宇宙そとの存在だ。

 死神と妖精では比べるのもおこがましいが、僅かながら共通点もある。


 それは、有益な物には対価を支払うという点だ。

 相手がどんな存在であれ、取引が成立すれば約束が破られることはない。


 取引に応じるかは格上側の判断に委ねられるが、臆病な妖精が単独で死神に会いにきた。

 その覚悟と、椿に対する深い思いを汲んで、睦月は話を聞いてみることに決めた。




 ◆ ◆ ◇ ◇




 宙に現れた裂け目から降りてきた睦月を見て、椿は姿勢を正している。


 妖精と出会ってからの記憶を消すか、妖精の存在自体を消すか。

 難しい選択だが、椿はそれほど悩まなかった。


 本当に美しい容姿だ。

 フードを外した睦月を見て、椿は感嘆の息をつく。


 一族の集まりには父である東院と、後継者である兄が参加していたため、椿が睦月を目にする機会はほとんどなかった。

 同じ一族だと知ったのも、つい昨日のことだ。


 色々と疑問は残るものの、椿の身体にはほんの少しだけ睦月と同じ血が流れている。

 その事実は、椿の心に仄かな勇気を与えてくれた。


「答えを……聞きに来られたのですよね」


 病により記憶を失くしても、毎日のように花を贈り続けてくれた妖精。

 大切な友達を消すなど、椿にはできるはずもなかった。


「そのつもりだったんだけどね。少し事情が変わったんだ」


「え……?」


 椿の視界がぐらりと揺れる。

 病で失くしたはずの記憶が、脳内を走馬灯のように流れていく。

 混乱する椿の目に、窓際の机が映った。


 ──今日はまだ、花が届いていない。


 震える唇が、睦月の名を呼ぼうとする。


「……あれ? 私、どうして……」


 目の前の存在が、どんな名前だったか思い出せない。

 激しくなる頭痛に、椿は頭を押さえていた。


 部屋から外を眺めるばかりだった椿に、花をプレゼントしてくれた妖精。

 彼女との思い出も、約束も、椿の中から一瞬で解けていく。


「……どんな約束……でしたっけ……」


 取り戻したそばから書き換わっていく記憶が、激流のように押し寄せてくる。


 いつしか椿は、意識を失っていた。




 ◆ ◇ ◇ ◇




「つばき。……椿、聞いているのか?」


 肩を揺すられ我に返った椿は、前に立つ東院の姿をぼんやりと見つめた。


「お父様……」


「まだ体調が悪いのか?」


「いえ……平気です。問題ありません」


 本館と別館を繋ぐ渡り廊下の周囲には、見事な日本庭園が広がっている。

 今は依子と過ごしている陽向だが、明日になれば椿と交代する予定だ。


 東院に生まれたからには、期待に応えなければならない。

 椿の様子に満足げな顔をした東院は、再び足を進めている。


「なら良い。しっかりと勤めを果たしてきなさい」


「はい、お父様」


 庭園の花が綺麗だ。

 何気なく庭を眺めていた椿は、廊下の向かいから誰かが歩いてくることに気がついた。


「お父様、あの方は……?」


「ああ、彼女は神楽しがらきのご当主だ。椿が会うのは初めてだったな」


 神楽かぐらでは、家の格が高い方に道を譲る決まりがある。

 横にそれた父にならい、椿も道を開けた。

 会釈する椿たちの前を、睦月が通っていく。


 ──こんなにも美しい人がいたなんて。


 東院の後に続きながら、椿は睦月の姿が見えなくなるまで、何度も後ろを振り返っていた。



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