この世界の世間一般的には「昼なお暗く危険だ」と言われているらしい〝黒の森〟。確かに木の葉が生い茂って日の光を遮っているし、樹皮が暗い色の木が多いのでかなり暗い。

　なので、知らない人が見れば暗くて怖いと思うのも仕方のないところではある。獣人たちはともかく、獣たちは気性の荒いものが多いようだし。

　小型の草食動物を除けば（首を狙ってくる兎はいないそうだ）、樹鹿くらいだろうか。あれも怒らせれば相当に危ない存在らしいが。

　しかし、エイゾウ工房の面々にとってはいわば「我が村」のような存在であり、獣たちからもめったに危害を加えられることのない俺やヘレンなどにとっては、あまり危険のない地域でもある。

　賊が襲ってきたりやしないかと神経を尖らせる必要がある街中や街道よりも、〝黒の森〟のほうが気楽に歩けるくらいだ。

「うーん、気持ちがいいな」

　俺は伸びをしながら言った。森の暗さを吹き飛ばすかのようにそよそよと春の気持ちいい風が吹き抜けていく。

「そう言えば、ここを歩くのも久しぶりか」

　普段は森から街道の方へと行き来するときは、クルルの引く荷車に乗っていて自分の足を使うことはないが、今日は久しぶりに森の中を自分の足で歩いている。

「そうだな。狩りのときとか、森の中だけなら歩いていくけど」

　ヘレンが伸びてきている下生えをかき分けて言った。狩りにはサーミャを始めとして家族のほとんどが参加する。具体的には鍛冶場で作業をしている俺とリケ以外だ。

　マリベルも手伝ってもらうことが特にないときは、狩りのほうに行ってもらっていた。炎の精霊としての仕事をするわけではなく、単にみんなとのお出かけの機会だからである。

「速さも視点の高さも全然違うけど、納品以外でもたまには歩かないと、って気になってくるよ」

　そう言いながら、俺はヘビが横たわるように地面に伸びている木の根っこをまたぐ。

　ちょっと前に逃走ルートの確認のためにしばらく森の中を移動したが、住んでいる場所のことなので、こうやって直に色々と感じる機会はもっと作ったほうがいいのかも知れないな。

　一番良さそうな逃走ルートについては確認したが、それ以外のルートも回ってみて、森の変化を見たりするのも必要かもなあ。

「確かに、周りの変化に気がついて不意打ちを防いだことはあるな」

　俺のは単純に環境の変化と言う意味合いだったのだが、ヘレンはもう少し深い懸念、襲撃に対してのことである。まあ、その意味でも巡回というのは大事になってくるな。

「サーミャにも頼んで色んな場所を回ってもらうようにするか。何かあったらサーミャとリディが真っ先に気づいてくれそうだし」

「もともとそれなりに違うところに行ってるけど、もっと広げたほうが良いってことか？」

「そうだな」

　以前にサーミャから聞いたところでは、獣人族はなんとなくのゆるい縄張りのようなものがあるらしい。

　しかし、それは他の獣人が入ってきたからと言って即座に排除するようなものではないそうで、むしろ獲物の情報を教えたりすることもあるそうだ。

　無論、狩りすぎないためだろう、前日に狩りをした場合などはそれを伝えて、他所へ行くように促すこともするようだが。

「それにしても、クルルに運んでもらわないとこんなに遠かったっけと思うな」

「なんだなんだ、エイゾウは身体がなまってるんじゃないのか。夕方、ディアナたちと一緒に身体動かすか？」

「いや、それはちょっと勘弁してくれ」

　ヘレンとディアナ、アンネの稽古は、鍛冶場の片付けを終えて夕食の準備をする前に見たことがあるが、あのままもう半年も続ければ王国内で太刀打ちできる人間が片手の指で数えられるほどになるのではないだろうかと思うほどの激しさだった。

　あれを普段の仕事の後でやるのは中身が４０代、外見は３０代のオッさんにはいささか辛いものがある。

「気が向いたら来いよな」

　いつの間にか直ぐ側まで寄ってきていたヘレンにバンバンと背中を叩かれる。

　俺はやや小さめの声で「おう」と返すのが精一杯だった。

　森を順調に進んでいると、遠くからガサゴソと茂みをかき分けるような音がする。それは凄いスピードでこっちに向かってきているが、俺もヘレンも特に武器を抜いたりはしない。

　ここまで来て、こんな動きをしてくる相手は一人しか思い当たらないからだ。

　ガサリ、と茂みから影が飛び出した。小さくはない。そのまま思い切り飛びかかられていたら少し危なかったかも、というくらいの大きさ。それはそのまま一声吠えた。

「ワン！」

「ルーシー！」

　茂みから飛び出してきたルーシーに向かって、ヘレンが即座に駆け寄って頭を撫でると、ルーシーの尻尾はちぎれんばかりに振られた。

「俺達の匂いを嗅ぎつけたのか」

「ワン！」

　もういくらもしないうちに家につく。その距離でならルーシーが家族の匂いを嗅ぎつけることができてもおかしくない……のかな。

　俺もヘレンと一緒にルーシーの頭を撫でていると、ワイワイと話し声が近づいてくる。

「間違いない、こっちだ」

　そう言っているのはサーミャの声だ。そして、すぐに家族全員が集まった。

「なんだ、みんな家で待ってても良かったのに」

　俺が言うと、ディアナが腰に手を当てて言った。

「急にルーシーが飛び出すんですもの」

　そこを混ぜっかえしたのはリケだ。

「でも皆も飛び出すの早かったですよ」

　リディとアンネが乗っかった。

「気持ちは皆分かりますからね」

「それはまぁそうねぇ」

　そして〝黒の森〟に笑い声が響く。俺とヘレンは、少しだけ早くそれを言うことにした。

『ただいま！』