皇太子ネロダルスは、重厚な鎧を纏い、堂々とした足取りで戦場の最前線に姿を現した。
彼の目は炎のように燃え、深い決意を映し出している。兵士たちは、彼の一挙手一投足に耳を傾け、静粛な緊張感が漂う中で待機していた。
ネロダルスは剣を抜き、大声で叫ぶ。
「日和見派の家を王命としてこちらの戦力にする準備は、滞りなく進んでいるッ!
それまで、各自がしっかりと持ちこたえて籠城の体勢に入るのだ!」
その声は鋭く戦場に響き渡り、周囲の兵士たちの心に鋭い刃の如く突き刺さっていた。
兵士たちは、瞬く間に動き出した。
城壁の脆弱な部分を固めるため、予備の部隊も準備させ、陣形を整え始める。
彼らの動作は一つ一つが緻密で、既に心の奥底に刻み込まれた忠誠心と決意が、ひたすら前進を促しているかのようだった。周囲では、戦鼓が鳴り響き、剣の研ぎ直しの音が響く中、厳粛な雰囲気が漂っている。
そして、皇太子はさらに一歩踏み出し、兵士たちの間を堂々と歩みながら、最後の確認を行うと、重い足取りで城内へと戻っていった。
けれど、装備を脱いだ途端に、身体が震え出す。
アルウィン・ユスティニア。
その名を思い浮かべた途端、足元が揺らぎ、膝が崩れそうになる。
けれども、彼は辛うじて踏みとどまった。
「殿下、大丈夫でございますか?」
近くにいた兵士の一人が心配そうに声をかけたが、ネロダルスは即座に表情を引き締め、睨みつけるように答えた。
「問題ない。俺の顔色を窺う暇があるのならば、この城の守りも固めるのだ。最悪、10万の民に肉壁になって貰うのだからな」
声は威厳を保っていたが、手は止まらず震えていた。
「承知しました」
表情を変えることなく、兵士は彼の部屋から姿を消す。
負けるわけにはいかなかった。
「俺は王になるのだ……俺こそが……!」
誰に言うでもなく、小さく呟いたその声には、自らに言い聞かせるような焦燥が滲んでいた。
だが、震えは止まらない。
………………
…………
……
アルウィン率いるユスティニア軍は、昼過ぎに王都ソフィアポリスの西側に布陣した。
彼は長期戦を避けるために野戦に持ち込みたかったのだが、王都軍は籠城戦を選択している。
「3日ほど包囲するのもアリでしょう。
王都の兵は8000ですが、10万の民を抱えているため、食糧が急速に不足するはずです」
そう、ヴァシラがアルウィンに作戦を述べる。
けれどもその横で、カロヤン・カラザロフが口を開いた。
「アルウィン様。我が領地の北にあるディミトロフ家に向けて鳥の集団が放たれたとのことです。
恐らく、王都からの援軍要請があったのでしょう」
それを聞いて、周囲の表情が一変する。
「なら……包囲戦は無理だな。王都の民もなるべく無事でいて欲しい。
そうなると……やはり、正々堂々ではないがアレスの作戦通り行くしかないか」
ここで、アルウィンはベルラントに「どうだった?」と問う。
ベルラント率いるゴブリンのルーベン族は、ダガール平原の戦場を途中で抜けて早い内に王都に潜り込んでいた。
「アルウィン……予想通りだったぞ。
ここは完璧な計画都市だから、王城に地下水道が繋がっている。水路は人間が入れないほど細いが、我々なら可能だ。いつでも皇太子と接触出来る」
「よし、じゃあそれで。もう、今夜中にやっておこうか」
アルウィンはそう指示し、一応、相手が打って出てくる可能性を鑑みて各将たちを配置する。
今の状況は、アレスの思い描いた通りだった。
地下水道を通って王都域にゴブリンを侵入させるという計画。
それは、二段階に分かれている。
第一段階は、今アルウィンがベルラントに命じたように、皇太子を拉致することである。
こっそりとゴブリンを皇太子の寝室に入れ、
そうして、皇太子を失った混乱の最中に第二段階が始まる。
ゴブリンたちが城門の開閉装置に攻撃して防備を破り、ユスティニア軍を誘引するのだ。
城門は東西南北に四箇所あるが、それら全ての支配権を奪い、四方からユスティニア軍が王都に攻め込む。
それが、この作戦の内容である。
第一段階、第二段階とも失敗した時の保険として皇太子という人質が必要だった。そのため、拉致は本作戦において必要不可欠なのだ。
「上手くやってくれよ……ベルラント爺」
彼は願うように、王都の城壁を眺めていた。
………………
…………
……
冷え切った空気が漂う地下水道。滴る水音が、静寂の中で異様な響きを生んでいる。苔むした石壁に張り付く影の中、ゴブリンの一団がじっと時を待っていた。
「族長!この真上が……ちょうど王城になります」
低く押し殺した声が響く。報告を受けたベルラントは、僅かにに細い目を開いた。
皺深い顔には動じる気配もなく、ただゆっくりと頷く。
「わかった。アルウィンから作戦の許可が降りている。わしと精鋭五名で皇太子の寝室に行く。備えておけ」
老いた族長の声は静かでありながら、鋼のような威厳を保っていた。ゴブリンたちは息を呑み、即座に身を引き締める。
ここは地下水道。王都を貫くルコディオン川の水をスライムによって浄化し、住民の井戸や王城の噴水、城壁の水堀にまで行き渡らせる生命線である。
しかし、今宵の彼らにとっては、王城へと続く隠された道であった。
ゴブリンたちは王城の井戸の真下に集まっている。
地上に響く馬車の音や衛兵の巡回の足音すら、彼らの耳には遠く小さく聞こえた。
ベルラントは手元の剣を磨きながら、静かに息を整える。
計画は単純明快───
井戸の底から王城へ侵入し、皇太子ネロダルスを生け捕りにする。
痕跡を消さなければならないため、無用な殺しはしない。
ただし、見つかれば、否応なしに刃を振るうことになるだろう。
「間もなく刻限……動くぞ」
族長の命が下る。
ゴブリンたちは音もなく立ち上がり、手際よく縄や鉤爪を準備する。
王城の石床の向こうに眠る標的を、確実に狩るために。
漆黒の影が、石畳を這うように移動する。月の光も届かぬ王城の通路。湿り気を帯びた空気が肌に纏わりつくなか、ゴブリンたちは音もなく進んでいた。
「右へ三歩、そこに死角がある」
ベルラントの低い声に、五名は迷いなく従う。
ユスティニア軍のカラザロフ侯爵から伝えられた王城の構造は、既に頭に叩き込まれている。
彼らはまるで城に長年仕えていたかのように、曲がり角の先に何があるかを理解していた。
細い体躯を活かし、柱の影や壁の隙間に素早く身を滑り込ませる。人間ならば到底入り込めぬ狭い通路も、ゴブリンたちにとっては格好の通り道だ。衛兵たちが松明をかざして巡回する中、その光が届く前に素早く移動する。
王城内は静寂に包まれていた。
しかし、静けさは彼らにとって敵ではない。むしろ、その沈黙を破るのは、失態を犯した時であると理解していた。
「階段を上がれば寝室だ。残り五十歩……」
ベルラントの声は、更に小さくなる。
王城の最上階、長い廊下の突き当たりにある扉。その前には二人の衛兵が立っていた。
彼らは無言だったが、松明の淡い光が照らす中で確りと周囲を警戒している。
だが、それでも音も気配もない闇に対しては、どうすることも出来ない。
ベルラントの小柄な影が床を這うように近付いた。
熟練のゴブリンは、重厚な鎧を纏った人間が決して発揮できない縮地の機動力を以てして、背後に忍び寄る。
そして、一気に跳躍すると、彼は衛兵の後頭部を正確に殴打した。
「……ッ!?」
衛兵は声を上げる間もなく、瞳を見開いたまま膝をついた。力が抜け、剣が床にカタンと倒れる。
もう一人の衛兵が異変に気付いて振り向いた瞬間、別のゴブリンが影の中から飛び出し、同じように一撃を入れた。
ベルラントは崩れ落ちて意識を失っている二人を確認すると、「扉を開ける」と低く囁いた。
配下がすかさず動いて、針金で鍵穴を攻略していく。