「反乱軍が……来たぞッ!!」
報告の声が響くと、皇太子ネロダルスの顔は蒼白になり、全身がわなわなと震え始めた。
重々しい声で続けられる報告は、戦況の絶望的な現実を容赦なく告げる。
「ヒュパティウス公爵家の親子は戦死した。
もう俺達には……王都内の兵力、総勢8000しか残っていない!」
ネロダルスは立ち尽くした。
戦場の地図に視線を落とすが、そこに描かれる陣形はすでに崩壊している。
「奴らが……そこまで迫るとは」
と呟いた皇太子の声は、誰に向けたものでもない。
遠くから聞こえる戦鼓と歓声。それは、アルウィンが率いるユスティニア軍の進撃を知らせる音だった。
ネロダルスは拳を固めたが、その力は虚しいほど弱々しかった。
目の前の敵であるアルウィン・ユスティニアが、自分の命も、王位も、全てを奪い去ろうとしている現実が、彼を恐怖で縛りつけていた。
部屋の外では、兵士たちが慌ただしく駆け回る音が響き続ける。だが、その混乱の中に希望を見出す者は誰もいない。
だが、そんな中で───彼はひとつ決断をしたのだった。
「それでも、王都を死守するしかない……!」
皇太子ネロダルスは震える手で玉座の肘掛けを握りしめ、虚ろな目で列席する将軍たちを見回した。
彼の表情には焦燥と恐怖が滲み出ていたが、その裏にある固い決意が消えることはない。
けれども。
「……ネロダルス殿下。まだ、我々には勝機があります。嘔吐の眼前で決戦に持ち込むのです」
列席した将軍の中でも、最前にいた老将がそう進言した。
「待てッ……!!デイモス!!
それは許さん!」
皇太子は虚ろな目で将軍の名を呼んだ。
けれど、その将軍とは長らく東部戦線の総指揮感を務めていた名将であるナルセス公爵である。
彼は、アルウィンとアレスが送り込んだ協力者───詰まるところは間者であった。
元々から現王に忠誠を誓っていた公爵。
現王は放蕩息子であるネロダルスを王には認めず、わざわざエヴィゲゥルド王国に逃れていたユスティニア家の血筋に賭けた。
その現王の意思を、デイモス・ナルセス公爵は受け入れた。
彼はアレス・ベルサリウスという若き才能のある少年をたいそう気に入り、彼からの報告によってアルウィン・ユスティニアという王候補の人となりを信頼して間者として協力することを決めたのだ。
着々と、この氾濫計画は進んでいる。
ヒュパティウス公爵家に関しては当主と、その息子ミオンを討ち取った。
次に刈り取るのは、皇太子ネロダルスである。
けれども。
「ならん!決戦は駄目だ!」
血走った瞳で、皇太子ネロダルスは叫ぶのだ。
「殿下ッ!
敵の作戦を立案しているのはアレス・ベルサリウスです!
彼の行動パターンは私が熟知しておりますッ……!」
間者であるナルセス公爵が、そう返答する。
「だとしてもだ……!!
徹底的に兵の士気が低い!
俺が戦場へ行かねば、ヤツらはまともに戦ってはくれぬだろうよ!」
「そうでございます!
陛下が戦場へお立ちになれば、士気は最高潮に達します!だからこそ、ユスティニア軍を叩きのめす絶好の機会なのですよ!」
「ならんと言っているだろうがッ!
俺は戦場になど行かん!」
デイモス・ナルセスはこの時理解した。
このネロダルスというクソ皇太子は、徹底的に小心者であり、流れ弾を恐れているのだと。
アレスが出した作戦は、ナルセス公爵によって皇太子を王都決戦の戦場に引摺り出させるというもの。
ゴブリンのルーベン族が出陣直前に皇太子派の各将軍を暗殺し、ナルセス公爵が王都軍の全てを掌握してユスティニア軍に寝返ることで、無防備な皇太子を亡き者とする手筈なのだ。
けれども、ナルセス公爵の思惑とは裏腹に、小心者のネロダルスは籠城戦を主張していく。
「王都を捨てるわけにはいかない……!!
ここで降伏すれば、俺たちの名は歴史に汚点として刻まれるだけだ!」
彼の声は震えながらも力を込められていた。
作戦の軌道を修正しようとナルセス公爵が口を開く。
「しかし、陛下……ユスティニア軍は圧倒的です。このままでは、いずれ城壁を破られ───」
「黙れ!」
ネロダルスは立ち上がり、叫んだ。その目には異様な光が宿っていた。
「俺はまだ負けていない! 王都には二十万の民がいる。彼らを……彼らを人質として利用するのだ!」
その言葉に室内の空気が凍りついた。誰もが息を飲む。
「民を城内に集めさせろ!!
そして伝えろ!!
ユスティニア軍が一歩でも城壁に近付けば、俺たちは王都の民を容赦なく処罰する、と!」
何と愚かな男だ、そうナルセス公爵はこの時思っていた。
籠城が長引けば民衆からは飢餓が発生し、疫病も蔓延する。
王都の民のためならば、彼らから犠牲が出ないように城壁の外で決戦をするのが上策だ。
「それは……」
公爵が言葉を詰まらせる。
「それでは、民の信頼を───」
「民の信頼だと?」
ネロダルスの顔が歪んだ。
そして、鬼のような形相で衛兵を呼び付ける。
「楯突くナルセス公爵を牢に放り込めッ!!」
そう、言い放ったのだ。
「「「な……!?」」」
ナルセス公爵から、そしてその周囲から、どよめきが起こる。
けれども衛兵は公爵を囲み、ささっと手錠をかけて彼を連行してしまったのだ。
「殿下……」
公爵のもの寂しそうな瞳が、ネロダルスを見つめていた。
その瞳は彼を憐れむようにも見え、「早くここから出すのだ!」と声を荒らげる。
デイモス・ナルセスの消えた部屋は、静まり返っていた。
「信頼など必要ない。
勝てば全ては正当化されるのだ。
俺たちがどれほどの覚悟を持っているかを思い知らせてやる!」
沈黙が広がる中、将軍たちは互いに顔を見合わせたが、反論する者はいなかった。
皇太子の狂気じみた決意に押されるように、彼らは無言で頭を下げ、命令を実行するために退出していったのである。
一人残されたネロダルスは、椅子に崩れ落ちるように座り込む。その目には疲労と恐怖が色濃く浮かんでいたが、彼の中で燃え続けるのは、失うことへの恐怖と勝利への執念だった。
「俺を侮るな、アルウィン……」
彼は低く呟きながら、震える手で剣の柄を握りしめた。
………………
…………
……
牢に繋がれたナルセス公爵は不敵な笑いを堪えきれなかった。
「馬鹿皇太子が。私がこのようにしくじった時のプランだってアレスは考えているのに」
そう誰にも聞こえないような声量で呟いて、粗末な藁のベッドに横になる。
皇太子の最期をこの目で見られないのは残念だと思いながら。