「向こうでは、寒い日に、ジャムと、強い酒を入れた茶を呑むんだ。それで凍えそうな夜にも、身体を暖めて眠るんだ」
カップがナギの前に置かれる。ああ懐かしい香りだ、とナギは思う。ナギはカラ・ハンに居たあの時点でもまだ「子供」の集まりに時々連れ出されていたから、この香りはその記憶を運んでくる。
「だけどうちの亭主にくっついて、こっちに来てから、ろくなジャムがありゃしない。……そりゃ帝都だから、パンにつけるようなジャムはいいさ。十分すぎるほどある。だけど茶に入れるジャムがありゃしない。結構あたしにゃ困ったねえ」
「そうでしょうねえ」
茶に入れるようなジャムは、強烈な酸味と甘みが必要だった。パンにつけて食べるようなジャムではやや物足りないだろう。逆にこのサカーシュのようなジャムをパンにつけたらくどくてたまらないだろう。
帝都や副帝都の茶は基本的にはストレートな黒茶である。ジャムを入れるような習慣はない。需要がないから供給もない。当然の論理と言えば当然である。
「黄いちごに赤いちご。ぶどうにオレンジ。ラガクチャにパンショ。……そんなのはいろいろあるのにね……ところがある時、このジャムがあったんだよ。副帝都に出掛けたときかな? 向こうの品をよく扱う店があってね」
「あ、そういう所があるんですか?」
「これがあるんだよっ」
ふっふっふ、と自慢げに夫人は笑った。
「……いいな。私も今度行ってみたいですね。何処です?」
自分の話に興味を持たれる、というのは嬉しいものなのだろう。それが初対面の人間だったらなおさらである。何しろ何を言ったところで、相手には珍しいのだ。話好きの者なら更にお喋りになり、そうでもない者も雄弁になる。
コルシカ夫人は前者のようだった。かなり人懐っこく、お喋りの部類に入るだろう。
だとしたら。
ナギはお茶を呑みながらの世間話のフリをしながら、次々と話題を変えていく。
草原の辺境地の物を扱う店のことから、彼女の故郷のことから、彼女の結婚したいきさつやら、現在のこの屋敷の状態まで……
お茶は美味しかった。
暖かいから、ジャムの酸味が一層引き立つ。それに懐かしい味でもある。香りでもある。
カラ・ハンに居た頃、まだ「ちゃん」付けされていた頃、誘われてサカーシュ摘みに行ったことがある。その時エプロンに染み着いた濃い赤紫と、やや涼しい空気にぱっと広がった香りの記憶が瞬間、よみがえる。
「……まあね、ここは給料が良くなかったら、当の昔に辞めていたね」
コルシカ夫人は愚痴ともあきらめともつかないような調子で話す。ナギはそれに対して曖昧で、だけど少しだけ同情的なあいづちを打つ。
「まあ」
「別に気楽は気楽なんだけどさ、どうも時々得体の知れない連中が入り込んでるようで、気持ち悪いったらしょうがない。全く…… それでいて今度は旦那様が亡くなりなさって…… 一体この家はどうなることやら」
「でもシラさんが、ここのお嬢さんが遺産は受け取るのでしょう?」
いいや、と片目をつぶってコルシカ夫人は右の人差し指をぴっぴっと横に振る。
「実はね、ここの旦那様には隠し子がいるんだよ」
「え」
それは初耳だった。ナギはいつもの作った驚きではなく、本当に驚いてみせた。思わず身体が前に乗り出す。
「そうなんですか?」
「そうなんだよ。あんたは知らなかったようだね?」
「知りませんでした。シラさんからもそんな話聞いたことはないし」
夫人は首を横に振る。
「お嬢さんは知らない筈だよ。そうかもしれない、とは誰だって思うだろうよ。あの旦那様じゃ」
「……」
確かにそうだ。ナギは思う。
自分が「引き取られて」最初に住んだ松芽枝市の屋敷は、ここの「旦那様」、ホロベシ男爵が次々変わる愛人のために作らせたものだった。
その屋敷に取っ替え引っ替え女が住み着いていたとすれば、子供の一人や二人間違いでも何でも、できてしまったところで何らおかしくはないのである。
「……じゃその隠し子ってのは男の子なんですか?」
「女の子だったら何にも問題はないのにねえ」
夫人は嘆息する。彼女はナギがずいぶんショックを受けたようだったので、露骨にしまった、という表情をする。
「ああだけど、お嬢様だって、別に一文無しになるという訳ではないのだし、あんただってお嬢様が望まれれば、きっとそのままでいられるよ。心配しなさんな」
「そうですね」
夫人はぽんぽんとナギの背中を叩く。多感な年代の少女が身の上に起きた出来事に途方に暮れているものだと夫人は思っていた。それではせめて気を落ち着かせてやろう。
だがナギはもちろんそんなことでショックを受けているのではなかった。
考えて然るべきだったことである。実際考えなかった訳ではない。だがそれでも、そうなって欲しくない未来からは目を逸らしがちである。
そういうことから目を逸らしていた自分にショックを受けていたのである。
……不覚!