ジャムを別の器に入れて、お茶を別にもう一つのポットに入れてもらうと、ナギは用意された部屋に入った。
学都の一つである、東海華市を離れて以来、ずっと着ていた第一中等学校高等科の制服を脱ぐとハンガーに掛ける。
華月はまだ厚手の、寒期用の制服である。それはそうそう洗濯に回すということがない。黒いハイカラーの内着だけを取っ替え引っ替えするのが普通だ。
寝台に腰掛けて眺めると、白い大きな水兵襟がずいぶん汚れていた。そうだろうな、とナギはため息をつく。草原を馬で走り回り、砂まじりの都市をほっつき歩いた結果と言えば仕方ない。
背中に手を回し、髪を止めていた紐を取る。上は自分自身ではさみで適当に切り、下だけ細く長く伸ばしているのだが、三つ編みにされていた髪は、やっと自由になったとばかりに、さらさらとほぐれる。
用意された部屋は、副帝都のそれよりは小さかったが、寮舎の自分達の部屋よりはずいぶんと大きかった。
寮舎の部屋というのは、良家のお嬢さん方が大抵、入った当初ぶうぶうと不平をもらす程度の広さしかない。自分のことを自分でしたこともないような彼女達は、そこで自分の身の回りのことをするようになって初めて、その広さで助かった、と思うようになるのである。
それでもここは一応客間しらいので、その寮舎の部屋よりは明らかに広かった。
客間は客間でも、「下級」だろう、とナギは踏んだ。帝都の男爵邸、なのだから、客人も多いだろう。最もその客人も全てが全て良家の方々という訳でもないだろう。おそらくはホロベシ氏がまだ平民だった頃のつきあいの連中もやって来る。
だからきっと、そういう平民の客間だろう、と彼女は思う。
とりあえずナギは茶を一杯入れる。サカーシュ酒があればいいのに、と酒に関しては底なしの彼女は思う。
ジャムをたっぷり入れた茶をゆっくりと口に含みながら、ナギはコルシカ夫人から得た情報を整理してみる。
『ホロベシ男爵には幾人もの愛人が居たが、そのうちの一人が男の子を産んだ』
『当初男爵は認めなかったが、調べさせた結果、実子ということが判明して、認知させている』
『時期はシラが生まれた一年後あたりである』
『母親は五年前に副帝都へ引っ越しているが、子供の方は何処かの学校に入れられているらしく、母親と一緒には住んでいなかった』
『だが現在氏の死去を聞いて、帝都に親子して来ているらしい』
あちらこちらへ飛びまくるコルシカ夫人の話を要約すると、こういうことだった。
だとしたら、執事のコレファレス氏が葬儀を出したがらない理由も判らなくはない。シラが喪主であるにせよ、その男の子(おそらくはシラの一つ下の十六歳)であるにせよ、すぐに判断はできないのだ。
そしてシラがいない。黒夫人に拉致されているとみて構わないだろう。だが。
何故黒夫人は彼女を拉致しなくてはならないのだ?
ナギは疑問に思う。
そしてもう一口、茶を含む。ぱあっ、とさわやかな甘みが口中に広がる。
その時、ノックの音が聞こえた。おそらくは……
「すごい香りですね」
返事をして、カウチの方に自分と茶を移したら、ドアが静かに開いた。予想した通りだった。そこにはコレファレス氏が立っていた。
「驚かれないのですか」
「来るなら貴方だろうとは思ってましたから。それに私も貴方に訊ねたいことがありましたし」
「ほほう」
「お茶でもどうですか」
「いや、結構」
コレファレスは顔の前に手を上げる。
「それにその香りはコルシカ夫人お得意のジャムでしょう。私にはその香りはやや強いですね」
「そうでしょうね」
慣れない者には強い、とナギも思う。自分は辺境に暮らしていたことがあるが、おそらく彼は違うだろう。
ではお茶帽子を乗せておくか、というと、それはしなかった。空になりかかった自分のカップに、もう一杯注いで、たっぷりとジャムを入れる。再び香りがぱっと広がる。
これは嫌がらせである。
「まあとにかくどうぞ」
ナギは自分の横を勧める。「下級の客間」といえ、カウチの座り心地は決して悪くはない。落ち着いたグレイの地に深い赤紫や紺の糸で刺繍が綺麗にされている。
さてどう出るか?
ナギは考える。そのために場所を移したのだ。
コレファレスはあっさりと一人入れる程度の間を置いて、彼女の横に座った。
だが座っただけだった。姿勢はきちんとしたままで脚一つ崩しもしない。どうやら純粋に話をしに来たようである。少なくともそういう態度を見せたいかのようである。
「単刀直入に申します」
はあ、とナギは曖昧な返事をする。
「お嬢様を取り戻していただけませんか」
「は?」
ナギは問い返す。確かに単刀直入で突然である。
「取り戻して?」
「先程の玄関でそのような話はできないでしょう」
「まあ確かにそうですが。取り返す、とは尋常ではない。どうしてそういう言葉を使いますか? シラさんはミナセイ侯爵家にお世話になっているのでしょう?」
「お嬢様は、ミナセイ侯爵夫人に捕まっている、と言って間違いないと思います」
ナギはあまり明るくない照明の下、きっぱりとそう断言するコレファレスの表情を探ろうとナギは金色の目を大きく開いた。
「ちょっと待ってください、コレファレスさん。例えそうだったとして、どうして私にそんなことができると思いますか? 私はただの、シラさんの、あなたのお嬢様の学友に過ぎない。他に何の力もある訳ではない。ただの子供に過ぎませんが」
「まあ聞いてください」
コレファレスは軽く手を上げる。執事にしておくには惜しいくらいそれは優雅な動作だった。むしろ活動写真の男優のような動作だ、とナギは思う。
そうですね、聞けと言うなら聞きましょう。ナギはひとまず口をつぐむ。