「ナギちゃん市内通信ですよ」
コルシカ夫人が、昼近くになって呼びに来た。何処からか、と訊ねたら、夫人はやや大げさに手を広げた。
「ミナセイ侯爵家の方ですってさ。ナギちゃんをご指名だって言うんだけど」
「……何かしら」
ご指名、ね。
久しぶりに聞いたその言葉に、ナギは昨夜のことを思い返す。その言葉は、流れ流れている時にはよく聞いた。娼館では毎日、一日に何度も耳にしていた。
昨夜あれから、コレファレスに勝負を挑んだが、それは勝算があったからした訳である。夜の夜中の、寝台の上で、果てた方が負け、という実に単純明快な勝負だったが、ナギは無用に負けが判っている勝負は挑まない。
結果として彼は本日は風邪だなんだと理由をつけて、寝込んでいる。もちろん風邪などではない。
でもあの見かけは嘘だ、とナギは思う。
あれは明らかに「四十代初めのやり手の執事」を演じていた。歳をごまかすため、多少はメイクも入っている。実際はその見た目より十歳は若いだろう。
正直言って、そのあたりを見極めたかったから、その方法を取ったのだ。
良かれ悪しかれ、好き嫌いあれども、長い間やってきた生きてくための仕事というのは、人をその道のプロにする。本当の年齢などそれなりに見抜ける。
コレファレスはどうやら、学位を取って卒業してすぐにこの家に入ったのだろう。それが何故かは判らない。だが歳をごまかさなくてはならない理由はあったろう。サートゥン・コレファレスという名とて果たして本当かどうか。
勝負は延々数時間に及んだ。
その間に何度も何度も彼女は相手の声を聞いた。
自分ではない。こういうのもなかなか楽しいかもな、とナギは思った。
何と言っても相手も自分も生理的欲求に急かされている訳ではない。如何に相手を急かすか、というのも勝負の一部となる。まあ腕試しのようなものか、とナギは思う。
ここのところずっと女の子を楽しませることは存分にしてきたが、野郎はずいぶんご無沙汰していた。しかも「仕事」の時にはそういう努力とは無縁だった。
ナギはしようと思えば幾らでも相手を楽しませることはできるのだ。経験値という奴である。
何はともあれキャリアは長い。かつての友人アワフェ・アージェンからキスのテクニックを教えてもらったように、流れ流れてきた様々なところで、少しづづ技術を会得してきたのだ。
そう、技術である。それ以上ではない。如何にして自分はいかずに、相手をいかせ続けるか、そのための技術である。そうすることによって、自分の身体のダメージも減るし、相手からの受けがいい。娼館では、むげに商品である女達の身体を傷つけたくはないから、技術を教え込むのだ。
尤もナギは身体については何の心配もしていなかった。だから技術を使う面倒を避けた。まあ向こうの好きなように、と身体を投げ出すのが普通だった。
そして客は、大抵は綺麗な彼女を抱いたという事実だけで満足する。
技術を駆使するのが「努力でない」と感じられる場合や、明らかにそれをした方が有利だ、という時には、存分にそれは発揮される。あまりそういうことはなかったが。まあナギは最近では、専らシラをいかせる時にそうしている。かなり手加減はしてはいるが。
「一体……」
訝しげに首をひねる様をコルシカ夫人に見せながら、ナギは通信機の前に座った。保留にしてある画像と音声を通わせる。夫人はじゃあまた、とその場から去った。
復活した画像には、くっきりした顔立ちの女性が映っていた。
「こんにちは」
『イラ・ナギマエナさん?』
画面の中の女性はあでやかに微笑む。
真っ黒なややきついウェーヴのかかった髪を耳の下で切り揃えている。
その下にはくっきりと、ややつり上がった黒い眉、さらにその下には大きな黒い瞳、そしてやや茶系の、それでも深みのある赤の唇。極めつけは、ナギよりもさらにやや低い、それでいて甘い、アルトの声。ヘッドフォンごしにも、耳の何処かをくすぐるかのようだった。
「ええそうですが…… ミナセイ侯爵家の方ですか」
『ええそうよ。私はミナセイの家内、ラキ・セイカよ。イラ・ナギ、お目にかかれて嬉しいわ』
別にナギは嬉しくも何ともない。その本当の名でこの人に呼ばれるというのも何やら耳障りである。
愛想笑いを返すのがしゃくだったが、まあ回線の向こう側である。とりあえずはにこやかな表情を作る。
「そちらにうちのお嬢様がお世話になっているということで、ありがとうございます」
『ふふふ。彼女はとても元気よ。心配しているならご無用』
どうやら向こう側の通信機は、やや広めのコンソールデスクが取ってあるようである。
向こう側の彼女は、やや身を乗り出して話している。コンソールデスクに乗せている腕を包む袖もまた黒く、たっぷりとしている。もちろんその腕の先、上半身をくるむのも黒だ。ナギは服飾関係には全く興味はないが、どうやら最新モードの形ではあるらしい。何となくゆったりしたラインは、ウエストが低く取っているのを伺わせる。
「ええそれを聞いてとても安心しました」
『彼女、可愛らしい人よね』
「ええ全く。……でも申し訳ないのですが、お嬢さんはすぐにでも返していただけませんか?こちらも葬儀の関係とかございますし」
『ああら、喪主は他に居るのではないの?』
「いいえ、喪主はシラさんです」
『……やけに断言するのね』
「いえ、本当のことですから」
ここで「いけませんか?」などとケンカを売らなかっただけでも立派だ、とナギは思う。
何しろ相手が相手だ。黒髪黒目、全身黒の衣装のこの女が黒夫人でなくて一体誰だというのだ。その黒夫人が自分を名指しで通信してきた。気は抜けない。
「こちらの家人一同、なるべく早急に葬儀をしたいと思っているのです。そちらには申し訳ございませんが……」
語尾をぼかす。そろそろ下手に出る耐久力が切れそうだ。
『嫌、と言ったら?』
「お嫌なのですか?」
そこで初めて黒夫人は顔の笑みを消した。もちろんそれまでも、目は決して笑ってはいなかった。
『嫌』
彼女は断言する。唐突にナギは、胸に熱い、細い棒を打ち込まれたような衝撃を感じた。それもただの熱さではない。鉄を鍛える炉のような物に突っ込まれ、白金色に光るその熱さである。