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第38話 「嫌がらせじゃあないのか?」

 普段はそんな感覚はない。滅多にない。まず、ない。喉にまでその熱さがこみあげてきて、一瞬口がきけなくなる。どうしたの、と向こうの言葉にやっと少しその熱を冷まされる。


「それは困ります」


 そしてようやくその言葉を絞り出す。


『そうよね、とても困るでしょうね。でもこちらも嫌と言ったら嫌よ』


 歌うように彼女は言う。


「何故ですか」

『さあ何故でしょうねえ。それに通信機でお願いされても私も困ってしまうわ。あなた直接いらっしゃい。それからどうするか考えるわ』

「直接?」

『今私、皇宮にいるのよ』


 ああそれはあり得る。ナギは記憶をひっくり返す。別に社交界に興味はないが、入ってくる噂は聞くともなしに耳に入ってくるものだ。

 成績優秀真面目少女が集まるらしい「第一」とは言え、少女達の話題に社交界のことは欠かせないらしい。

 興味を持たないのは、それこそいつか辺境に戻る留学生や、ナギのような「頭いいし素敵だけど変人」の類だけである。

 その噂によると、ラキ・セイカ・ミナセイこと黒夫人は現在、後宮におけるサロンの構成員の中では一番の実力者だということである。

 後宮は女性の園である。

 今上の第七代の皇帝陛下には、七人の夫人方が居る。後宮は、建物のことを指すのではない。皇宮内の一つの地域のことを指す。その後宮の中には、十余りのやや小さな建物があり、一つ一つに名前が付けられている。


 やっぱり典雅よねえ。その一つ一つが植物の名がつけられているんですって。

 あんたその一つ一つ言える?

 言えますよーっだ。


 少女達はそういうことにばかりその若い頭脳を発揮する。あまりにもそういう話題は繰り返されるものだから、聞くともなしに聞いていたナギやシラにもその知識は飛び込んできてしまうのだ。

 そして現在の最も大きなサロンは、皇太后の住む「楓」館にあるのだと言う。黒夫人もそこのメンバーらしい。


「私如きがそこまでいけましょうか?」

『来られないというの?じゃあ迎えを出しましょう。お会いできるのを楽しみにしているわ』


 そして一方的に通信は切れた。

 ナギはヘッドフォンを外すと、唇を噛みしめた。別に言葉の上では大したことはない。だが明らかに黒夫人は、ナギに喧嘩を売っていた。その態度で、言葉の端々で。理由は判らないが、自分を怒らせようとしていた。

 もちろんナギは怒っていた。だがその反面、怒らされた、ということに気付いている自分もいる。その向こうの考えに易々と乗ってしまった自分にも腹が立つ。

 正直言って、シラのことでなければこうも自分が動じる訳がないのだ。言い換えれば、シラはナギにとって、明らかに弱点だった。

 何故そうなってしまったのか、そのあたりはナギとてはっきりは判らない。

 もしかしたらはっきりと考えたくはないのかもしれない。

 いずれにせよ、黒夫人に会わなくてはならないのは、決定的なことである。まあそれは、前からそう考えていたからいい。昨夜の勝負の最中にも、そのことをナギは延々考えていたくらいである。どうやって黒夫人と会うか。

 さてどうしよう。


「コルシカ夫人…… お茶下さらない?」


 とりあえずは落ち着かなければ。


「昨日の、本当美味しかったから……」

「……何あんた、ずいぶん顔色悪いよ…… 何か悪い知らせでもあったのかい? ……今日はコレファさんも調子悪いようだし…… 皆困ったねえ」



 その「調子の悪い」コレファレスのところへナギはジャム入り茶を呑んで人心地ついてから出向いた。本当は嫌みたっぷりにジャム入り茶でも運んでやりたかったが、まあお見舞いということで普通の黒茶にやや酸味のきつい柑橘類のミランシュを半分に切ったものを添え、持って行った。

 彼はぐったりとうつ伏せになって半分眠ったような状態だった。近付くと、その身体をゆさゆさと思いきり揺さぶる。


「起きろよ」


 ナギはぞんざいこれ極まりない、という口調になる。


「……君か」 

「思ったより元気そうじゃないか」


 思った通り、起き抜けの顔は若かった。予想した通りの歳だ。一種専門的なメイクで彼は普段顔に皺を入れているらしい。それが全く無くなっている。

 ナギはにっと笑って見せる。


「思ったより…… ああ全く。君は化け物だよ。それこそ私が女だったらこういうね。『こんなの初めて』」


 言葉の最後は、両手を前に組み合わせてうっとりと目を閉じるポーズである。ナギは苦笑する。 


「ずいぶんなお褒めの言葉ありがとう。軽口を叩ける余裕があるなら十分だ。それよりサートゥン、ちょっとした展開があったんだが」


 いつの間にかナギは彼の呼び名の方を口にしていた。

 連合の、デカダ通運の三男坊もそうだが、彼女はある程度気に入ると、相手を向こうの許可なしでも呼び名で呼ぶ。

 まあコレファレスの場合は、それに加えて発音の問題というのがある。彼の名はだいたいの人にとって呼びにくいものであったらしい。コルシカ夫人もときどきコレファさん、どなどと端折っている。


「何?」


 彼は訊ねる。するとナギはミランジュの半切りを大きめのカップの上に乗せて、彼に突き出す。


「まあ呑め。市内通信が入ってな。黒夫人から私に直々のご招待がかかった」

「黒夫人が直々に?」

「あんな格好であんな濃い印象の女性だ。彼女しかいまい。尤も私にしても、そう見たことはないのだが」

「雑誌とか見たことはないのかい?」


 サートゥン・コレファレスは、小さなトレイにカップを乗せると、ミランジュを思いきり茶の中に絞った。柑橘系特有のさわやかな香りが一気に広がった。


「あまり興味がなかったんでな。もう少しよく見ておけばよかった。『女子学生通信』だの『帝都現代服飾事情』だの買っている子は居たしな」


 まあそれはいい、とナギは腕を組む。


「まあ迎えが来るということだから、来たら私は行く。とりあえず交渉しないことには始まらない」

「そうか。だけど私はどうも疑問なんだがな。何故夫人は君を名指しで来させたいのだろう」

「嫌がらせじゃあないのか?」


 そう言ってナギはややふてくされたように目を伏せる。


「?」

「夫人も寮生活があるというしな」


 何のことだか、さすがの彼でも判らなかった。 

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