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第50話 カラ・ハンの地の気風

「耳でも悪くしたのか? あたしは戻らん、と言ったんだ」

「……聞こえたよ。だけど」

「何度も同じことをぐだぐだと聞くな」

「何でだよ?」

「何度も聞かれるのは好きではない。忘れたのか?」

「じゃなくて、どーしてもう戻らないんだよ?」

「お前聞いてないのか?」


 今度はティファンの方が驚いた。


「何を」 


 ティファンの目が鋭くなる。


「辺境学生狩りだ」


 聞いたことがなかった。エカムは首を横に振る。


「学都各地で、辺境学生が不穏な動きをしている、ということで、官憲が最近適当な口実を上げては学生を逮捕監禁している」

「本当か?」

「東海華も例外ではない。エカムそちらには連絡が行ってないか? あたしが死んだ、と」

「……いや……」

「ではもうじき行く筈だ。自殺したとか何とか」


 そう言ってからティファンは指で何かの図形を空に描いた。

 彼女達の部族にとって自殺は禁忌である。ひいてはその単語すら、忌むべきものとして、口に出した時にはそれを打ち消すための動作が加えられなくてはならない。

 ティファンは腕組をして唇を噛む。やや厚い唇が赤く染まる。まあ呑め、とエカムは彼女の一杯目が空になった器に茶を注ぐ。ティファンはすまん、と一言つぶやくと、それを飲み干す。


「やはりこっちの茶はいいな。向こうのは薄すぎだ」

「そうなのか?」

「全然風習が違う。こっちのを真似しても結局向こう側のものにしてしまう。それでそれを押しつける。全く」


 ぶるぶる、と彼女は頭を振る。


「冗談じゃない」

「……で学生狩りの方は」

「言った通りだ。あたしの学校も例外ではなかった。だからあたしは逃げてきたんだ」

「お前が行ったのは第一中等だろ?」

「ああ。東海華でも最高ランクだ。だがな、だからと言って例外にはならん。普段あれだけ区別しておきながらそういう所だけは一律とは笑わせるな」

「よく逃げてきたな」

「まあな。隣室の友人が服を貸してくれたし。髪も切ってくれた。切りたくはなかったが…… だが切ってみるとなかなかいいものだな。楽だ」


 ふるふると髪を振ってみせる。


「頭が軽い」

「……はあ」

「こんな恰好してたおかげで大陸横断の三等車にもちゃんと乗り込めた。あれには感謝している」


 エカムはとりあえずうなづくしかなかった。



 ティファンが戻ってきた、という知らせはカラ・ハン族の季節居住区カンジュルに一気に広まった。

 駅からエカムの家へ向かう時に、彼女の姿を見た者が一気に広めたのだ。

 そうしたら、脱いだ服と荷物を手に、自分の家へ向かう途中にとりまかれた。


「おおーっ! 久しぶりだなあっ!」

「元気そうだなあっ!」

「また一段と男らしくなって」


 などと彼女のもと遊び仲間達は口々に言う。その性格のせいか、恰好のせいかともかく、彼女には男の友達の方が多かった。


「すごーい、似合う」


 その中で唯一の同性の友人が、ぷっつりと切られた髪をいじりながら屈託なく笑う。そおだろう? とティファンもしゃかしゃか、とその髪を揺すって見せる。


「でも大変だったんじゃあなあい?だってこないだ、シャファさまが公務でスージャンへ行ってらしたんだけど、その時も駅の警備は結構厳しかったって」

「……まあな」


 そうつぶやくと、ティファンはクロッシェ帽をぽん、と友人にかぶせる。


「アガシャの方が似合う」

「え?これって」

「副帝都のアルタファン製とか言ってた。だがどーもあたしには合わない。アガシャにやる」

「……いいの?」


 アルタファンは、この辺境地でも名が知られている、一種のブランドである。高価で、辺境のこの地では滅多に手に入らない。

 似合う似合う、と周りの男達の声が上がる。ありがとう、と嬉しそうにアガシャはティファンに抱きつく。


「また後で皆で会おうね。いろいろ知らせたいことがあるんだ」

「知らせたいこと?」

「一口では話せない、ダルサンタイ・カム。明日だ。……いや、族長に話し終わったらいつだっていいんだ。いっそ今晩にするか」


 おう、と男共の声が上がる。


「だがちょっと待ってくれ。今はまず用事があるんだ」



 ドゥヤ・エカム・テイルはひどく混乱していた。

 カン・ティファン・フェイは彼の幼なじみであり、それこそころころと男も女もなく遊び倒していた頃には自称「ライバル」だった。

 この地方の少年少女は、十歳程度まで、男も女もさほどなくころころと育つ。

 とは言え、それは少女に初潮が来るまでのことだ。どれだけ小さかろうと、月経が来るようになったら、そう寝るも起きるも遊ぶも転げ回るも、馬に乗るも一緒に、という訳にはいかない。

 まあ、とは言っても、この地方は基本的に実力主義の気風を持つ。転げ回ったり一緒に水浴びしなくはなっても、まだ馬に乗るだの弓矢の腕だの、そして学問だの、一緒に競い合える部分は十分あった。

 確かに「男の仕事」「女の仕事」と便宜的に分けられてはいるが、それは特性で分けられているだけのことだ。

 たとえ男であっても、外へ出て馬を追い回すより、手先の細かい作業を得意とする者は「女の仕事」である縫い物やジュータン織りだのに向かうこともある。また、逆に女でも、家の中に居るだけじゃ血が騒いで仕方がない、という者は、馬に乗り、家畜を追い回すことになる。

 要は好みと適性だった。

 辺境の地の自然は厳しい。その中で生きていくには、体裁だの伝統だのだけではどうにもならないこともある。まず第一は生き残ること、だった。

 それがカラ・ハンの地の気風だった。

 さてそういう気風であったから、五年前、「最優等生を一名留学させるように」という帝都教育庁の命令に対し、素直に従った結果、カン・ティファン・フェイがそれに当たってしまった訳だ。

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