「あたしはその彼女に助けられました」
「助けられた」
「はい。あたしは殺されかけたんです。いえ、そちらの方は、自分で何とかしました。それはいいのです。返り討ちにしました。ですが、そこから逃げ出す際に」
「手助けしてくれたということか」
「はい」
ティファンはうなづく。
「もう少し詳しく言ってみろ」
イラ・ナギという名は、カドゥンにとって、一つの転機となった少女の名だった。最も、その時点で彼女は、生きてる時間だけ見れば「少女」などでは決してなかったのだが……
十二年前、彼はカラ・ハンの地に流れてきた綺麗な少女に恋した。
同じ辺境の地でも、見かけはかなり違う。金と銀の間のさらさらした長い髪、金色の目。すんなりした長身はさほど起伏はなかったが、それは彼女の美しさを損なうものではなかった。
結構きちんとアプローチしていた、と彼は思う。だがそう思っていたのは彼だけで、当の彼女はそれに大して気付いていなかったふしがある。
まあそれも当然で、当時彼女は、ひどく疲れ果てていたのである。もちろん彼女はその理由は言わなかったが、その疲れ方にも彼は惹かれたのかもしれない。何せ周りは皆実に健康そのものである。
そしてその彼女が実は今上の皇后だ、ということを知った時にはさすがにすぐには信じられなかった。称号がある訳ではない。身体がそれを証明するのだ。
証明したのは、初代と三代の皇后だった。
にわかには存在を信じられない来訪者だったが、彼女達は彼に次代の族長たれと告げていった。
ナギのことは好きだった。
何に対しても無気力になりかけていた彼女を守ってやりたいと思っていた。しかしその無気力な彼女は、無造作に切られた髪と一緒にカラ・ハンの地に捨てられたらしい。
都市間列車に乗り込む彼女には無気力は既に消え失せていた。
彼女が消えた後、カドゥンはしばらく自分の中の何かが欠けたような気がしていた。無論それを気取られるようなへまはしない。昼間は忙しく、無くしたものを数えるような余裕はない。
だが夜になると。
割れた鏡であったり、残された服は否応なしに記憶をよみがえらせる。
そしてとりあえず彼はそれらを箱に詰めた。そして、そのすき間を埋めるように日々の役目に精を出していた。忘れようとした訳ではない。忘れられる類のものではないことを彼は知っていた。
忘れられなくともいい。
だからせめて、次に会った時に、彼女に対して自分を誇れるような人間になろうと思ったのだ。
そしてやがて族長に選ばれた。その時やっと、自分をずっと見ていた別の瞳に気付いた。
ファイ・シャファ・イェンは、カドゥンの横で戦いたいのだ、と言った。
そして彼はシャファを横に置くことにした。それは正解だった、と彼は思い、そして今でも思っている。
「よほど悪い状態になっているようだな?」
「はい。東海華市内でも、第二、三男子中等学校の方でイダ・ハンやカンジュル・ハンの学生が捕らえられています。……実際に動きが不穏な者ももちろん居ますが、特に理由がある訳でもない者も最近は理由を付けられて逮捕されることが」
「カラ・ハンから行った者は…… バルクム・クシュがいたな」
「彼は行方不明です。逮捕はされていないと思われます。私の元に手紙が来ました…… そのせいで私も逮捕されそうになったのですが」
「と言うと?」
シャファがそこで初めて口をはさむ。
「寮舎に来る手紙は検閲されます。寮舎全体に盗聴装置が据えられています。私を逃がしてくれた友人が教えてくれました。一般には知られていないようです。私も言われるまで気がつきませんでした」
何故かティファンの顔はやや赤くなる。
「……そうか」
「イラ・ナギマエナは族長を知っていると言ってました」
「ああ。名前はやや変わっているが、昔の知り合いだ。それにしてもお前も返り討ちとはたくましい」
「ありがとうございます」
ティファンはやや頬を染めて微笑んだ。この地において、自己防衛はほとんど義務のようになっている。すなわち、自分を殺そうとしたものは、殺しても全くもって構わない、と言う論理である。その論理は、何よりもまず生き残ること、という気風から出ている。
カラ・ハンは、現在大陸を二分する大国「帝国」と「連合」をはさむ砂漠に近い草原の部族である。
もともとは騎馬民族であり、戦乱の時代には活躍した者も多い。現在は、夏には放牧、それ以外の季節には居住地に住むのが普通となっている。
現在でも、馬は彼らの生活において大きな比重を占めている。子供達は小さな頃から馬と親しみ、やや大きくなれば、それなりに身体に合った馬から始めて、乗馬の訓練をする。ただし適性もあるので、どうしても合わない者への無理強いはない。そういう者にはそういう者の仕事があるのだ。
とは言え、カラ・ハンはもともと勇猛で知られる部族である。馬に乗れるに越した事はない。弓を使えるに越したことはない。剣を使えるに越した事はない。
そして何よりも彼らにとって大切なのは、生き残ることだった。
それは全ての道義に先行するのだ。
「早朝でした。私を窓から突き落とそうとしましたから、逆に返り打ちにしました。……ですからおそらく、向こうもそれを私の遺体ということにしたのだと思われます」
満足そうにティファンは言う。そして満足げに族長もうなづく。
「彼女は元気そうだったか?」
「はい」
「そうか」
シャファはそれを聞いてやはり静かに微笑んだ。
「手紙を預かってきました。族長に直接渡すように、と」
「手紙」
カドゥンの目がやや細められた。