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第52話 ナギを知る族長

「おい? 本当に本物か?」


 そう言って彼は大股でつかつかとティファンに近寄った。

 ティファンは小柄ではないのだが、それでもこの族長からしてみると、近寄ると上からのぞき込む、という体勢になってしまう。驚いてティファンは目を大きく開く。


「何ですか! いきなり戻ってきたと思えば? ティファンが恐がってます!」

「お、シャファ」


 彼は妻の声にようやく視線を外す。ティファンは緊張が切れてその場に座り込んだ。やれやれ、といいたげにシャファはそんなティファンを助け起こす。


「お帰りなさい。別に変わったことは…… ああありました。カン・ティファンが帰ってきたのですよ」

「そう、それだ」


 彼は帽子を取ると、中に押し込んでいた髪を振る。黒く固くおさまりの悪い髪はようやく自由になれたとばかりにあちこちに広がった。


「なあティファン、お前何やらかしたんだ?」

「え?」

「俺は区役所に呼ばれたのは、お前の死亡通知を受け取るためだったんだぞ」

「死亡通知!」


 シャファは目を丸くする。そして自分の傍らの少女と夫の顔を交互に見る。


「はい、そうだと思ってました。でもあたし生きてます。殺される訳にはいきませんから」

「それでこそカラ・ハンの民だ。……まあ何かあるとは思ったがな。お前が自殺したなんて言われたから」

「自殺!」


 それを聞くとティファンはけたけたと笑い出した。


「誰がそんな冗談を! そんな訳ある訳ないでしょうに!」

「確かにそうだ」


 にやり、とやや大きめの口を歪めて彼は不敵に笑った。


「よっぽど我々のことを知らない連中が作り上げたんだろう、と俺も思っていたがな。カラ・ハンの我々は自ら死ぬことなど言語同断。決して許されない。だからおかしいとは思っていたが……やはりそうか。……だがティファン、よく逃げられたな。その服はどうした?」

「そ、そうなんです、そのことで!」

「カドゥン、ティファンは直接あなたに伝えないとならないことがあるというのだ。私にすら教えない。よほど大切なことなのだろう。聞いてやってくれませんか」

「よし。中で」



 一般的に、カラ・ハンの住居というのはシンプルである。それは建物という意味でもあり、内装や暮らし方、という意味でもある。

 先ほどから家だ家だと言ってはいるが、普通の木造石造りの家を思い浮かべてもらっては困る。組立式の移動式住居という奴である。

 大きくて丈夫なテント、とでも言うべきだろうか。大きな丸い床板を用意し、その周りを網状に組んだ張りのある木でぐるりと円状に囲み、そこに雨も染み込まぬ厚手の布を幾重にも巻く。最後に扇を開くようにして、丸い屋根を取り付ける。

 ひどく簡単なようだが、これが案外丈夫なのである。もちろん一つ一つの組合せが簡単なようでいて、実は非常に微妙なバランスを持っていることも確かなのだが、彼らはそれを経験と勘でもって突き止める。

 現在彼らが居るのは、冬季居住区であるから、多少は石造りの家もある。だが、基本的に彼らは移動の民であり、遊牧の民である。

 華月現在は、まだ冬季居住区に住む期間だが、あと少しすればまた草原に戻る。その日を待ち焦がれていることは言うまでもない。馬に乗り、羊を追い、日の出とともに目覚め、日の入りとともに休む生活。長い長い夕暮れ。彼らは待ち焦がれている。用意を始める家もそろそろ出始めている。

 ディ・カドゥン・マーイェもまたその一人である。いくら族長とはいえ、……いや族長であるからこそそうなのか。草原に出る日を待ち望んでいた。


「さてティファン、話してもらおうか」


 カドゥンは座り込むと、長い足と手を組んだ。

 家事一般をこの家でする初老の女性が、茶を運んでくる。乳茶である。だが言っておくがこれは学都の習慣のそれではない。ここで日中何度となく呑まれるのは、塩味の茶である。

 朝早く、固茶を削って、非常に濃い茶のエキスを煮出す。それに羊や馬の乳を暖めて入れて、軽く塩味をつけて、軽い食事として呑むのである。まあ言ってみれば茶味のミルクスープというところだろうか。

 ティファンの前にも、その茶が入った大きな厚手のジョッキが置かれる。ぶ厚いそれは、鮮やかな青と赤を基調の色として、やや大味とも言えなくはないような模様が描かれている。どちらかというと、濃い色であるジョッキは、白い馬乳酒や、薄い白茶色の茶を入れるとよく映える。

 この地にはこういった陶器を専門で作る者も居る。これは「女の仕事」と呼ばれてはいるが、結局は男が半分を占めている。

 天井には明かり取りの窓が開いているから、中に入っても暗くはない。丸く編まれた、やはり鮮やかな彩りの大きなラグマットの上に三人は座り込んだ。


「はい。族長カドゥン、まずあたしは、これを確かめなくてはなりません。ナギマエナ…… イラ・ナギと言う名に覚えはありますか」

「ある」


 彼は低い、だがはっきりした声で即答した。  


「ずいぶん懐かしい名だ。また会えるものなら会いたいと思っていたし、会えるだろうと思ってもいた」

「それではお話します」


 ティファンは姿勢を正した。


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