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第55話 健全なカラ・ハンの少女が知る訳がないこと

 盗聴機のことは初耳だったので、ティファンは驚いて友人の顔を見た。


『髪を切って、短くしたら一度すすいで。でないと頭をけがする。服をあげるから、逃げなさい』

『何処へ?』


 慌ててティファンも別のペンを取る。


『あなたの故郷へ。服と靴と帽子はあげる。当座の資金も。そのかわり頼みがあるの』


 何の頼みだというのだろう。だがその時にはそれが悪い頼みとは考えもできなかった。


『何?』

『カラ・ハンへ手紙を届けて』


 手紙? この友人が自分の故郷に知り合いがいるなど聞いたことがない。ティファンはややいぶかしげにナギを見上げる。ナギはティファンよりやや背が高い。。


『誰?』

『ディ・カドゥン・マーイェという人に』


 族長を知っているの? ティファンは驚き、一瞬ためらったが、やがてうなづいた。


『判った。族長を知っているの?』


 ナギはふっと微笑った。珍しい。

 ティファンはナギのそんな表情を見たことがなかった。イラ・ナギマエナと言えば、学校でも有名なクール・ビューティ、かつ変わり者だった。笑顔が滅多になく、それも向けるのはその相棒くらいだ、という認識がティファンはあった。


『とても』


 でもこの人ならあるのかも、と後で考えてみればおかしいのだが、奇妙にティファンには確信があった。それにそうであってもなくとも、ここは彼女のいうことを聞いておいた方がいい、とティファンのしばらく眠っていた危機対処能力は告げていた。

 そして両者は目を合わせてうなづきあった。

 後は無声劇さながらに静かに、かつすばやく実行された。

 ティファンはややためらったが、自分の髪を切り落とした。カラ・ハンでは長く伸ばした髪を二つに分けて編むのが通例である。その編み目の美しさが問われる場合が多い。だから多少のためらいはあった。ナギはおそらくそれを知っていたのだろう。先に片方のお下げを切り落としてしまえば、もうあれこれいうことはできない。

 ナギは彼女の髪をざっと切り揃えてから、洗面台で一度髪を洗わせた。残っていたガラスの破片が手を傷つけてはならないので、掃除用の防水手袋をはめて。

 ナギは時々眠っている相棒の様子を確かめていたようだった。健康な少女は決して起こされるまで目覚めない。それこそキスでもすればすぐに目を開けるだろうが。

 そしてクローゼットを開けると、ナギはざっと見渡していた。どれなら大丈夫なのか、考えているようだった。

 ふと一着が目に止まった。それは最近送られたものだと聞いていたものである。シラの新しい服と一緒に来たそれは、ナギの好みを全く無視した色づかいで、しかも副帝都の最新モードだった。

 ナギはその一着を引きずり出し、自分の寝台に放り出した。

 もともとそのデザインは、さほどサイズを気にするものではない。そして普通よりは短めのスカートであり、上着である。ナギよりはやや小さいティファンが着れば「普通」程度に見えるだろう。

 これを着て、とナギは髪を拭く彼女にそれを差しだした。上着だけ身につけて胸のところを掴み、余るわ、と言いたげにティファンは手を前後させる。そのくらい大丈夫、とナギは手をひらひらとさせる。

 そしてまだ時々水が滴る頭を見ると、ちょっと目をつぶって、と耳元でささやき、ナギは一気に髪をタオルでかき回した。

 タオルを外した時爆発したような髪を、ナギはさっとブラシでとく。それでもまだ濡れてはいるがまあ仕方がない。

 目を開けたティファンは鏡の中の自分にやや驚く。雑誌でみた最新モードだ。そしてナギはクロッシェ帽を片手に、また耳元で囁く。


「しばらくここで隠れていて。……そう、午前の授業が始まって少しした頃がいいな。……そうしたらここを出て。あくまで堂々と…… 荷物はいらない。資金と手紙…… とあとは小さなバッグだけでいい……」

「ナギ?」


 ティファンは鼓動が早くなる自分に気付いていた。

 この友人のこういう面を見るのは初めてだった、ということに加え、耳元で聞こえる声が妙に心地よい。

 これはナギが相手の力を抜く時に昔覚えた手段の一つなのだが、もちろんそんなことは健全なカラ・ハンの少女が知る訳がない。


「判った?」

「……」

「判ったね?」


 そしてナギはティファンにそのままくちづけた。

 一瞬もがいたが、やがてティファンの目付きがとろんと力をなくす。もちろんこれも、ナギにとっては、かつての友達アージェンの教えてくれたキスであり、単に技術の一つに過ぎないのだが、そんなことティファンは知らない。

 このカラ・ハンの少女は、どういう具合なのか、上級生の来襲も、同級生の悪癖も、無縁で過ごしていたのだ。

 身体を離してもぼうっとしているティファンをとりあえず椅子に座らせ、ナギはさらさら、と手紙を書いた。

 そして今度ははっきりと言葉を出した。ヴォリュームは落としていたが、非常に強い口調で。


「行きなさい」


 ティファンはぼんやりとうなづいた。

 ナギはシラが起きてくる頃にはクローゼットの中に彼女を隠した。ティファンは二時間くらいその中で息を殺していた。

 ナギが授業から帰ってくる時には既に彼女はいなかった。



 ナギからの手紙を読むカドゥンの前で、一度にそれだけのことが頭によみがえる。どちらかと言えば、返り討ちのことよりも、友人にされたあの濃厚なキスの方がティファンにとっては大きな衝撃だったらしい。どうしてもその部分だけが異様に鮮明だった。

 東海華を逃げ出した時にはさほどでもなかった。行かなくちゃ、と何かに急かされるように列車に乗り込んだ。

 その記憶が一気に極彩色で迫ってきたのは、列車の座席を確保して、安心した直後からだった。

 ひどく身体中がむずむずした。それは初めて感じるものだった。嫌という訳ではないが、……何となくティファンは珍しい自分に軽く苛立ちを覚えた。


「……来るそうだ」

「あの方が。こちらへですか?」


 シャファは夫に訊ねる。カドゥンは大きくうなづいた。


「……どうやらひと働きしなくてはならないようだ」

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