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第62話 アヤカ・キラという女性

 一昨年の春、改めて父親のホロベシ男爵に相棒を紹介された時、とりあえず上手くやっていけそうだ、とシラは言った。

 それは本当だった。そんな気がした。

 そういう娘の言葉に、そうか、と言っただけだった。

 シラは父親が好きではない。そして父親もシラを好きではなかった。

 それが照れだとか、そういった表向きの顔との折り合いをつけるための行動だとしたらまだ良い。そうであったら、それでも何か感じるものはあるはずである。

 だがそこには何もなかった。

 父親はそれが自分の娘ではないと知っていたからであり、娘はそれが本当の父親ではないと知っていたからである。


 ホロベシ男爵が、シラが自分の娘でないことを知るのは簡単である。彼には子供を作ったという自覚はなかったのだ。

 彼の妻であり、シラの母親であるアヤカ・キラという女性は、シラとよく似ていた。

 焦げ茶色の巻き毛に丸い顔、丸い焦げ茶の目。小柄ではないが大柄でもない。太くはないが肉付きが悪いという程でもない。つまりはごくごくありふれた女性と言える。

 だがありふれたとは言っても、それは上等の「ありふれた」である。

 「綺麗」と彼女はを評する者は滅多になかったが、十人の男が居れば、確実に九人は「可愛い」と言うだろう女性だったのだ。

 問題は、その彼女の夫となったエグナ・マキヤ・ホロベシという男がその九人の中に入らなかったことである。

 彼らの身分には当然のことだが、結婚は自分の意志というよりも、家と家との結びつきという見方が大きい。彼らももちろんその例外ではなかった。

 アヤカ・キラ・ヘンダシュはエグナ・マキヤ・ホロベシについて知っていたのは、写真で見た姿だけだった。実際に会った時、思ったより身長が低いのに彼女は失望したらしい。

 そして彼もまた、アヤカ・キラを知らなかった。別に興味もなかった。彼は仕事と、妻となる女性とは別のタイプの女性にしか興味がなかったのだ。

 とはいえ、アヤカ・キラが彼の好みのタイプであったとしたら、彼女が幸せな夫婦生活を送れたか、と言えばそうではないだろう。それはともかく、彼は妻と寝ることは義務としか思っていなかった。

 その結果、彼は妻と一度としてまともにできたことがない。彼は妻にはまるで欲情できなかったのだ。

 なのにある時長期の仕事から帰ってみると、妻が妊娠していると言う。

 これは嘘でしかない。

 アヤカ・キラは、「あなたの子です」と言い張る。

 お嬢様育ちの彼女には、その行為が実のあるものであったのかそうでなかったのか区別がつかないのだろう、と彼は思った。実際それ以上のことは考えつかなかった。

 だが彼には嘘と言えない。

 何故ならそれは、自分が彼女の前で役立たずであったことを証明してしまうことになるのだ。子供がそれまでできなかったのは自分のせいだと証明することになるのだ。

 そして彼は決めた。

 子供が男子だったら妻の不貞を責めたてる。

 離縁の理由ができるのだ。何とでも調べはつくだろう。女子だったら放っておく。使い道ならいろいろあるのだ。

 とりあえず一人でも生まれてしまえば、その子供が男子であれ女子であれ、自分の義務は…… 妻と寝るという義務からは解放される、と彼は思ったのだ。

 果たして生まれた子供は女子だった。それも、妻そっくりの。

 妻は自分の子だと言い張るから、誰が妻と密通したのか、それはまるで判らない。

 彼女はその出産のせいで身体と精神の調子を思いっきり崩し、娘のシラが六歳になる直前にこの世を去った。

 男爵にとっては好都合だった。

 だがその死んだ妻に、シラは年を追うごとに似てくる。これが男爵には面白い訳がない。

 そこで初等学校から寄宿舎に放り込み、休みごとの世話は、母方の実家に大量のお礼とともに任せた。シラが副帝都の本宅を自宅と考えにくいのはそのせいでもある。

 長期休暇は大概祖父母のもとに居た。男爵の屋敷よりはややこじんまりとしているが、大きな庭とちょっとした森があるこの祖父母の家は彼女のお気に入りだった。

 特に、母の形見は、宝箱のようだった。祖母もそれはそっと見守っていたようである。

 そして、それを見つけた。

 高等科の三年の時に、母の形見の本箱をかき回していた時、ばさり、と何かが落ちた。日記と、箱いっぱいの手紙だった。

 日記は全部で十冊近くあった。装丁が普通の本と全く同じだったので、男爵も祖父母もそれが日記だと気がつかなかったのだろう、とシラは後になって思った。

 彼女は広い庭の隅にあるあずまやまでそれを持っていき、陽が落ちるまで読んだものである。

 きちんとした字で丁寧に書かれた日記だったが、読んでいるシラには、はじめは訳が判らなかった。

 何故ならその日記は、ところどころ主語が隠されていたからである。

 時には主語が完全に抜かれていて、何も知らない者が読めば、文として成立していないようなところもあった。

 だがシラは頭の回転は良かった。

 その日記には、彼女が夫に対して持っていた感情と、別の誰かに対する気持ちが綴られていたのだ。

 ああそうか、とシラはその時思った。奇妙に平静だった。

 父親が自分のことを好きではないのだろう、とは感じていた。

 そして自分もそんな父親に対し何の感情も持っていなかった。むしろ祖父母の方がよっぽど家族のような感情が持てる。

 だがその祖父母は、昔ながらの人だったので、父親のことも愛し敬うように、と口を酸っぱくして言う。

 悪気はないのはとてもよく判るだけに、祖父母の教えにかなうことができない自分にやや嫌気がさしていたところだった。

 何となく解放された気分だった。

 あの男を父だと思わなくともいいのだ。彼を好きになれなくとも、別にそれは不孝でも何でもないのだ。

 そして多少は思った。ああだから父親は自分のことが好きではなかったのだろうな。

 ここでお涙ちょうだいの物語なら、自分が生まれてきたのが悪かったのね、とよよと泣き崩れてしまうところだが、あいにくシラには自虐の趣味はなかった。

 生まれてきたのが自分の意志であったなら、多少は良心の呵責とやらがあってもいい。まあ責められても仕方ないでしょうとも思う。

 だけど、生まれたのは自分のせいじゃないのだ。母親と、誰とも知らない男がある日ある時勝手に寝た結果である。

 だから自分がそんなことで責められる道理はない。責められてたまるものか、とシラは思った。

 それ以来、シラは、何となく自分の前の風通しがよくなったような気がした。

 日記には、母が付き合っていたらしい、夫以外の男のことも書かれていた。ご丁寧に、その名は一回も出てこない。

 名前の出てくる人もあった。それが手紙の差出人でもあったラキ・セイカ・ファドゥン、のちのミナセイ侯爵夫人である。


 愛しい愛しいセイカさま。


 日記にはそう書かれていた。



 やがてシラとイラ・ナギマエナは高等科の門をくぐった。寄宿舎も同室である。

 そんな気はしていた。おそらく父親の手が回ったのだろうが、回らなかったとしても。


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