まだ、戸惑っていた。
何だって、今、自分なんだろう?
ユカリはやや早足で歩きながら、ついそんなことを考えてしまう。普段はこの皇宮の中では、もっとゆっくり歩きなさい、というのが彼の主の口癖だった。
その主に朝もはよから呼ばれたにも関わらず、彼はその口癖をすっかりと忘れていた。むしろどんどん足取りは早くなっていく。それが普通の歩き方であればあるだけ、端から見れば奇妙なものであり、廊下ですれ違う朝食を運ぶ女官達は思わず立ち止まって、口を押さえていた。
はっきり言って、注意力が低下していたと言ってもいい。非常に彼の職業から言ったら、けしからんことではある。
ただ、彼にも言い分はある。何せ寝不足だったのだ。
昨夜、幼なじみで同僚のアイノがいきなり同じ敷地内にある彼の部屋の扉を思い切り叩いて、こう言ったのだ。「お願いだから泊めて」。
それがどういう意味か、彼もよく知ってはいたし、そんなことでどうこうする様な職場ではない。
だがそれが自分のもとに降りかかってくるとは思わなかった。しかもこの幼なじみから。それにまだ自分達は、そんな年齢だとは思っていなかったのだ。
泣きながらそう言ってきた友人をとにかく落ち着かせようと、何かした訳ではないが、結局夜通しそばに居てやった。
一晩明けて、ようやく落ち着いた彼女が眠ってしまってからでは、もうまとまって眠る時間は期待できなかった。主からは彼女が来る前から朝一番に来るように、と言われていたのだ。主の命令は彼にとって絶対だった。
しかし命令ではなく口癖だと、つい忘れがちになる。
そしてつい、扉を叩いてしまった。
「……あなたは扉を叩くんではなくてよ、紫」
彼ははっとして中からのその声に顔を上げた。そうだ、しまった。慌ててそのまま扉を開ける。
そもそもその部屋に扉は無いはずなのだから、そんな動作をしてはいけない。
無いはずの扉を開けると、無いはずの小部屋があり、そこには、彼の主が待っていた。
「かなりの注意力散漫よね」
くすくすと笑いながら、窓の無い薄暗い部屋の中、主は掛けて待っていた椅子から立ち上がった。そしてすっと彼の前に立ち、頬に手を伸ばす。この様に差し向かいになると、主を見下ろす形になってしまうので、彼はふと目をそらす。
「顔色も良くないわね。寝不足でしょう? 嫌な子ね。これからお仕事だというのに」
「申し訳ございません」
「まあいいわ、あなたも若いのだから、色々あるのでしょうし」
「そ」
んなこと無い、と言おうとしたが、主の視線にその言葉は遮られてしまう。
「別に構わないのよ? ちゃんと仕事さえきちんとしてくれればね。それがあなたの役目でしょう? 紫」
「は、はい」
「それにあなたはもう少し負けん気を持たなくては駄目よ。……っと、そんなことを言っている場合ではないわね」
ぱん、と手を叩くと、彼を真名で呼ぶこの主は、小さな文机に乗せてあるものをひとまとめにして彼に手渡した。
「資料と、版図内査証よ」
「これは……?」
彼の戸籍名が書かれた査証とは別にある、一枚の小さなカードを彼は手に取る。
「あら、見たこと無かったかしら。そうよね、あなたはまだこの周辺しか出たこと無かったし。鉄道全線の自由券よ」
「鉄道――― ですか?」
「ええそうよ、あなたそう言えば乗ったことは無かったかしら?」
「いえ、何度か、副帝都や、萩野衣あたりまでなら」
「それじゃあそれは都市間よね。今回は、あなたに大陸横断鉄道にも乗って欲しいのよ。ちょっと厄介かしら?」
「いいえ!」
反射的には彼はそう答えていた。この主にそんな風に思われるのは心外だった。
「経験は無いけれど、一生懸命やります。仕事の内容をどうぞ教えて下さい」
ふふ、と主は笑みを浮かべると、再び椅子にかけた。
その椅子も決して、豪華なものではない。作り自体はしっかりしているが、その主の身分からしてみれば、それは非常に質素なものだった。しかも今の流行とはかけ離れた大きさ、非常に年代を感じさせる。
そんな椅子に座ると、この決して大柄ではない主が、よけい小さく見えてしまう。その身分を聞かなかったら、ただもう「可愛らしい」という形容がぴったりなのだ。
長い栗色の髪は、当世風とは無縁に長く伸ばし、編み込んで上にまとめてある。銀か黒の髪飾りをつけることもあるが、常に簡素なものである。
好みとしている服は、当世風に近いものがある。と言っても、昨今の女性達が好む、膝までのスカートなどは決して履かない。いいところ、あの女子学生達が履く足割れスカート程度の長さ、膝下の半分というところである。それにそんな時には必ず靴下ばきをきっちりと履き込んでいる。それは正しい、と彼は思う。
当世風とは程遠い。しかしそれが一番主にはよく似合っている、とユカリは思う。
そしてそう思ってしまった後に、彼はいつでも思うのだ。この感情は不敬だ、と。
何故なら。
「お仕事の内容そのものは単純なのよ」
主はそんな彼の内心になど気付かない様子で、話を続ける。
「その資料を見てちょうだい」
言われる通りに彼は「資料」を見る。そこには、幾枚もの写真をも挟まれている。大判のその写真は、何やら学校で一斉に撮影したもののようにも思われる。
白い大きな襟と、蝶の様に大きく結ばれたふんわりとしたタイ。そして地の服は、それとは対照的に――― 黒い。
「黒、ですか」
写真は色を映し出さない。光と影のみである。それでも、紺と黒では、微妙な色合いの差が現れる。薄暗いこの部屋でも、ユカリの目は、それを判断していた。
「ええ黒。第一中等の生徒なんだけど。ほら、そこに丸打ってあるでしょう? 彼女」
彼は言われた通りにその丸をつけた少女を見る。ちょっと見る限り、当世風の短い髪の毛をしている様にも見える。色の薄い髪、色の薄い瞳。写真の中で、あまり大きな部分を占めている訳ではないからはっきりしないけれど、第一中等の制服の色が色であったので、奇妙なほどにそれは淡さを感じる。
「つまりね紫、あなたに今度、この子と一緒にしばらく行動してほしいの」
「行動、ですか――― その内容は」
あまりにも漠然とした言葉が主の口から発せられたので、彼は何となく戸惑う。いつもなら、何かしら具体的な命令が出たものだ。なのに。
「内容は、彼女が知っているわ。私も彼女が具体的にどう動くのか判らないから。だから彼女の動きの手助けをしてほしい、それだけよ」
すると。彼は思う。この少女がすること自体は主はご存じなのだろうか。
しかしそれは彼の聞く範囲のことではない。何せ、この主は、現在この帝国で最も高貴な女性、皇太后なのだから。
「判ったかしら?」
主である皇太后は、その可愛らしい顔に笑みを浮かべて、ユカリに答えをうながす。はい、と彼はうなづいた。